不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

同行二人

今し方、週末の掃除を終えました。

今週は3連休なので時間があると言うこともあり、和室を重点的に掃除をしました。

仏壇も本尊以下をいったん移動して、きれいに清めました。

我が家の仏像の本尊は母が他界した折に仏壇と一緒にやってきた大日如来

その時は左右に弘法大師と興教大師の座像があったのですが、現在では不動明王阿弥陀如来が安置されています。阿弥陀如来は戦前米国に渡り、そして2人の持ち主を経て日本の私に戻ってきました。

仏像というのは木や金属の塊で、それ自体は何の意味もありません。

意味が出てくるのは時間が経ってから。人々の思いや願いを受けて、ただの木や金属が尊くなる、尊くなっていく、そんな気がします。

自宅の三尊も久しぶりにまじまじと手に取ってみましたが、私や息子の祈りや願いを受けたからでしょうか、何とはなしにいい顔になっています(笑)。

正しい祈り、強い祈りが尊い仏像の表情を創っていくのだと思います。

画像

仏壇の上にいつか行ってみようと思っている秩父遍路の為の編み笠が置いてあります。

ご存じの方もいると思いますが、傘には墨で「同行二人」と書かれています。

掃除の時に息子がそれを見つけ、尋ねました。

「この二人って誰のこと?」

「一人はもちろん巡礼をする人だ」

「もう一人は誰?」

「自分で考えてみろ」

「お師匠さん?」

「違う」

「家族?友達?」

「違う、頭で考えるな、これは心で考える問題だ」

「インターネットには載っている?」

「字面だけは載っている、それが答えかどうかといえば違うかもな」

息子は得心したように言いました。

「分かった、もう一人は仏様だ」

「そうだ、いつもここにいる、仏様だ」

頭で考えねばならない問題が現代社会に多くあるのは間違いありません。

しかし同時に、心で考えねばどうにもならない問題も同じくらい多く、現代社会にあるのもまた事実ではないでしょうか。

社会のニュースを見る限りにおいては、現代人がこの方法で考えることはいささか不得手のように思います。

私はこれから先、息子が心で考えねばならない事態に備えていつも、心でも考えさせるようなことをよくします。

そして多分、それが本当の意味での豊かさにつながるのではないかと思います。

平成二十五年霜月二日

不動庵 碧洲齋