実は今日は息子が初めて英検5級を受ける日でした。
今日までに私は息子と色々英検に向けた勉強をしてきました。
今朝はいつもなら1人で執り行う朝課を息子と手を合わせました。
行ってからは別段神仏に手を合わせるでもなし。
祈りは基本、手の届かない人に向ける想いだと思っています。
そして日々の行いもその祈りに反したものであってはならないとも思います。
息子とはほぼ毎日、勉強をしていますし英検準備に入ってからはよく相手をしました。
それだけ勉強したのだから別段神仏に祈ることはしません。日々の行いそのものが祈りだからです。
息子には壮大な夢があります。宇宙飛行士になる夢です。
抽象的で雲のようにつかみ所のないような戯言は息子は言いません。
夢や希望だけ大きくて何もしない人は私も息子もあまり評価しません。
宇宙飛行士になるために必要なことをコツコツやることの重要さを息子は既に知っています。
日々為すべき事をする、日本人にはそれが祈りに通じていると思っています。
それ以外「にも」祈ることはありますが、祈って何もしないよりはその逆の方が日本社会では倫理としては高いように思います。基督教などでは何にしても神に祈ることが切実に重要と考えられることが多い。
だから息子には重要な時だけ仏壇の前で祈らせてます。それ以外に祈らねばならない時は自分で自然に知るようになります。
祈りを込めて行を成す。
その行を通じて社会のため、他人のため、それが巡り巡って自らのためになる。
だから行ったこととすることになるべく齟齬をきたしてはいけないと言っています。
世界平和を祈るならそれに準じた言動を心掛けるべき。
特に私の所属する道場には外国人が非常に多い。世界とのつながりをいやでも思い知らされます。
仏縁と言いますが、何にも必ず縁があり、それは私たちが気付かないところにも張り巡らされています。だから想いが届かない部分には祈りが有効だと思います。
平成二十七年睦月二十五日
不動庵 碧洲齋