不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

此度の選挙によせて ~明治時代の国際センス~

明治時代はトータルで44年続きました。つまり44年以上生きた人は、生まれたときは江戸時代、将軍や大名、侍がいて海外渡航は御法度、外国人を見ることすらはばかられるものでした。明治になってライフスタイルや国の方針ががサクッと変わりました。こういう変わり方をした国は実はよそではほとんどないと言ってよいと思います。

普通、政治形態が変わろうとするときは国全体が戦乱に巻き込まれ、地獄の釜のようにかき回され、国全体が疲弊に達します。隣国中国のような広大な国家であっても例外ではありません。普通は何百万人もの人が戦乱で命を落とし、隙を見せれば周辺の辺境部族が攻め入ります。現実に最後の王朝だった清王朝はご存じのように中華民族ではありませんでした。現政権である共産党政権でも戦後の大躍進で5000万人が飢えや病気で死んだという統計もあるそうです。個人的には5000万人もどうやったら戦争以外で殺せるのか不思議なくらいですが、かの政権ではあったかどうかも分からない南京事件を声高に叫ぶ方が重要のようです。

明治時代の一般の市民は、今よりも遙かに国際的な時事については知りませんでした。比べるのも笑っちゃうぐらい無知でした。今まで彼らが外国として曲がりなりにもイメージできたのは「唐」「朝鮮」「天竺」せいぜい「南蛮」と、こんな程度です。「琉球」だって日本人の仲間として見なしていたかどうか。一方で国の命運をになう政治家達の国際センスや能力たるや、今のエセ政治屋どもと比較したら笑っちゃうぐらい英才揃いでした。江戸時代末期から外国との時事に接してきた人が多かったとは言え、軍人、政治家、経済人、どれもかなり抜きん出た人が多い時代でした。いちいち挙げていたらきりがないので、今もそうですが、当時の日本の至尊の身であらせられる明治天皇が勅した「教育勅語」なるものを紹介したいと思います。これは明治23年に勅したものですから、明治のちょうど真ん中頃になります。我が家の床の間にも飾ってあります。原文は読みにくいので現代訳文を載せます。

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教育勅語

私(明治天皇)は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や,秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、(皇室の)祖先の教訓として、私達子孫国民の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

明治二十三年十月三十日

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これを読んだとき、当時の和洋折衷、和魂洋才、何でもよいのですが、日本のものの考え方と、海外のものの考え方の取り入れるバランスの良さに唸らされました。誉れ高き明治大帝の賢明さが如実に出ています。この道徳的規範はかなりハイセンスであるのに、それは海外でも行われていると断言しているところ。外国を慮っているだけでなく、「我が国こそ世界で一番!」などと21世紀の御時世になっても叫ばないと精神的に安定しない暗愚な国家とは違い、よその国も普通に行われていることなのだから我が国もそうしよう、慎み深く気高いものの考え方のように思います。それでいて日本建国の意義もしっかり述べられている辺り、教育勅語として重厚な意義を為しているように思います。

この教育勅語、戦後は軍国主義に通ずるとして学校では教えられなくなりました。恐らく「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。」(原文:一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ)が勝ったとはいえ、初めて白人以外の人種が自ら製造した兵器を以て戦いを挑んできた日本人の恐ろしさが骨身に沁みた欧米人にとって、ぜひとも削り落としたい思想だったのでしょう。こういう分をわきまえない劣等民族をちゃんと調教させようと思ったのかも知れません。もっとも言うまでもなく、日本人とて好きこのんで戦いを始めたわけではありませんが。

戦後の日本人の不思議なところ。道端で知らない人が難儀していたら、たとえ外国人であっても助けます。家族ならなおさらのこと。隣人が火事ならやはり、消火のために奔走するでしょう。子供の保護者なら学校の行事や防犯などに協力します。町内会にも未だ多くが参加します。しかし国家が他国の脅威にさらされた場合、国民を動員するとなると一斉に反発します。ここはさすがGHQが深慮遠謀でよく考えた上で施した教育だなと呆れ感心するところです。明治初年から今年平成二十四年で我が国は144年が経過したことになりますが、実にその半分の時代は爪に火を灯すような努力で積み上げてきた軍事力で日本という国が守られてきました。wikipediaでは「日中戦争」という項があります。1937年から1945年です。仮にこの8年が侵略戦争であったとしても、それ以前の70年はまさしく、清やロシアと言った巨大帝国とやむなく戦わざるを得なかった、勝ち目の薄かった防衛戦争でした。では戦後、67年が経過しましたが、軍事力無しでやっていけたのか?世界でも有数の軍事力を保有する自衛隊があり、しかも米軍が後ろ盾に付いています。それでも近年の中国や北朝鮮に対して十分とは言えません。

ユートピアンは法律で国民を戦争やそれに関連する使役に付かせるとはなにごとか、という趣旨ですが、戦争というのはそんなに単純なモノではありません。現代の戦闘機とて製造に数日、軍艦なら1年、しかしそれに搭乗して有効に活かせる乗組員を育てるのには何年もかかります。たとえば軍艦の艦長なら10年とか、です。戦争に関する使役とて同じ事。自衛隊の各種装備をある程度使いこなし、システムを理解させるようになるには、いわゆる「自発的行動」とか「ボランティア、奉仕」などというレベルでは到底間に合いません。日頃からそういうことを学んでおかねばならないのです。200年前ならいざ知らず、近代戦争時代になってからはボランティア的、自発的な国民の協力という、一見美談的行動は、実は国民の大切な労働と生命をむげにしてしまうこと他なりません。

また、自発的行動に任せた場合、戦後の法的根拠や責任問題など、近代国家故の問題が山積します。国が責任を持って国民に徴兵したり、徴発したりすれば、それは国が責任を持ってくれると言うことです。残念ながらボランティアや義勇的な行動は考慮されません。日本は法治国家ですから。そしてそれを決めるのも国民です。勝手気ままな君主や独裁好きの政治家はほとんどいません。皆さんの選挙で選ばれています。ちなみに大東亜戦争の責任は天皇、軍人、政治家、とか言っていますが、先帝陛下だって国会で決定されて事に最終的に可としただけです。立憲君主制では独裁的なことは出来ません。軍人が暴走したら誰のせい?国民です。よその国や権力者のせいではありません。単に国民の間でそういう風潮があって、多分、大東亜戦争では少々暴走気味だったと考えます。むろんマスゴミという業界全体には責任はあると思います。これは今に至っても同じ事が言えます。一番腹が立つのはその期間の国民の辛苦を無視して、その長さの10分の1足らずの大東亜戦争の、しかも悪い点ばかりをあげつらう日本人です。大東亜戦争が聖戦だったなど言うつもりはありません。しかしそれは連合軍だって然りです。戦後の頭のねじがゆるんだユートピアンは正義のありかはいずれにあるかなどと考えていますが、そんなモノはありません。

民主主義ではその戦争が侵略戦争であると国民が認識して、それを独断で数人の権力者が決めたことであれば、これは国家権力に対抗して阻止する権利を国民は有します。こういう時は権力者に銃を向けても構いません。権力者は国民の大多数の委託を蔑ろにしたのですから。故にその逆もあります。どこぞのならず者国家が侵略してきたとき、民主主義国家の国民がさんざん首長を持ち上げておきながら、音頭を取っても国民が動こうとしない場合、これは国民を叱責することが出来ます。民主主義社会に於いて、国民はお客様ではありません。船で言えば国民は乗客ではなく乗員です。国と国民の関係は民主主義に於いては(労働・納税:主権の維持)が本質的なものであって、(労働・納税:サービスの享受)はあくまで本質の維持であると思っています。後者が正しいと思うなら、専制君主国家に行けばよいのです。私は家畜にはなりたくありません。私は選挙をするとき、国民を乗客と見なしているエセ政治家が許せません。国民をナメきっています。ケネディ大統領でしたか、国に何を求めるかではなく、国に何が出来るか、これが民主国家の国民の本来の在り方です。

軍隊をなくす、という選択も民主国家で決められたのであればよいでしょう。明治時代の政治家のような極めて優れた外交活動の3倍ぐらい優れていれば、もしかしたら軍隊がなくてもうまく国際社会を立ち回れて、大事なく国家運営をできるかも知れませんが、今の体たらくを見る限り、今の政治家を明治時代の政治家の皆様と比較することは砂場の砂山と日本アルプスを比べるかのようです。哀しい現実ですが、自分の都合で進退が自由な米軍に頼るよりも、やはりそこそこの国防軍を持つことも有力な方法ではないかと思います。よその国民の税金で動かされている軍隊に、世界有数の経済大国が守られている。これを恥と思わない人が何と多いことか。私は恥じています。国のために戦う、国を守る為に何かをする、これがイコール侵略戦争とオーバーラップさせることに成功させた欧米人の手法にはほとほと感心しますが、ここにきて、これだけ広い世界に200カ国もあるのに5本の指でもおつりが来る程しかない反日国家が偶然、日本の周囲だけにあり、それらが精力的に威圧してきているため、欧米人が残していった魔力も天照大神の前にひれ伏しかけている様相のように私は思います。文武を尊ぶ和の国であればこその宿命のような気もします。実は私はそれを見据えた子供への教育をしています。

今回の選挙について思うところあり、少々長目のブログでした。

平成二十四年師走十四日

不動庵 碧洲齋