不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

白隠禅師も聖人ではなかった?

白隠禅師は非常に高名な禅師ですが、いわゆる聖人ではありません。非常に人間的です。禅師が住職していた松蔭寺界隈に、白隠禅師がどうしても好きになれない爺さんがいたそうです。門下からは「高名な僧侶たるものがそのようなことを・・・」とたしなめたのですが、当の本人は「ワシは嫌いなものは嫌いなんじゃ。」と言って譲らなかったとのこと。師曰く、白隠禅師は嫌いを嫌い潰してした、そこには自他もない純粋な「嫌い」しかない状態だったとよく言います。ま、ちょっとコジツケっぽいですが、人間臭くてこういう話しは好きですね。

だからというわけではありませんが私もやはり好きになれないタイプは多々あります。私のHPのプロフィールにもあります。基本的に残忍だったり冷酷だったりするのが好きではないのです。だから人が苦しんでいたり困ったりしているのを見て喜んでいる人は嫌いです。更に言えば他人を困らせたり苦しめたりして喜ぶSはもっと大嫌いです。Sは間違いなく変態に類しますが、日常でもよくいます。他人の不幸は蜜の味、という言葉も分からなくはありませんが、困った人の元にスッと言って無心に助ける方が後味は抜群にいいと思います。

それと、どうでもよい細かいことにだけ神経質で、大局的なことに心を配れない人も好きにはなれません。子供の時は神経質だったので、その裏返しかも知れません。最も今は細かいことにも大きいことにも同じように気を配りたいと心がけてはいます。これはなかなか重要なことではないかと思うようになってきました。

そして最も重要なこと。基督教にある「汝隣人を愛せよ」隣人って隣にいる人という意味ではありませんが、どんな形であれ気遣ってくれる人、支えてくれる人は皆友達です。逆に害意のある人は敵として見なさざるを得ません。私も聖人ではありませんから、危害を加えようとする人に反対側の頬をさしだすほどお人好しではありません。さりとてそういうところでびびったり怯んだり、困ったりするところを見せないだけのゆとりはあります。(まあ危害を加えたい人の大半は、それを見るのが醍醐味なんでしょうけど)

これは個人同士の話しだけではありません。国家間でもそのようなやり取りはしょっちゅう起きています。何とも浅ましい限りですが、日本は比較的そういう類の扇動はしない辺り、清いなと思います。

SD101217 碧洲齋