不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

己が愚痴の闇路なり

白隠禅師和讃というお経があります。

坐禅会などではよく最後に読経されます。

漢字ばかりズラーッと並んでいるお経と違って、和讃はどちらかというと口語的に書かれているので読みやすく理解しやすいお経と言えます。

その白隠禅師和讃の中に

「六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり」

という一句があります。

これを訳すと、

「いつまでも苦の世界から抜け出すことができないのは、自分の境遇をいつまでも嘆くからです。」

という感じになります。

その時その時の気分や境遇によって変わるのですが、この白隠禅師和讃を知ってからこの一句はずっと心に留めています。

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「愚痴」はよく使われる単語ですが、実はこれ仏教用語なんですね。

「愚痴」の語源は、サンスクリット語のmoha(モーハ)で、真実に暗い、つまり無知、バカという意味で、中国でそれが意訳された「愚痴」が日本に伝わり、今に至って言ってもしかたないことを言うこと、つまりバカみたいな発言を意味するようになったものだそうです。

時々おもしろ半分にYAHOO知恵袋を覗きます。

パートナーの至らなさにイラッ、姑の態度にイラッ、会社の同僚や上司にイラッ、友達や知人にイラッ、自分の境遇や待遇にイラッ。もちろん中には深刻なものや誰かに相談するに十分値する内容もありますが、大抵は自分を勘定に入れているから故に起るべくして起ってしまう感情の暗い炎のような気がします。自分が気に入らない、自分が腹が立つ、自分が不幸、自分が納得いかない。ま、誰かに直接的な被害や危害が及ぶというなら多少は考慮の余地はありますが。

私の周囲にもそんな人が何人かいます。

何かをすると、やってもらったところより至らなかったところに文句を言う。何もしなくても気に入らないことがあったり、虫の居場所が悪いと言わなければいいことまで言う。自分のエゴを相手にぶつけて、散らした火花、がっぷり四つになった肉弾戦の中に自分を見出す人。自分と比較して他人の環境や境遇にいつも愚痴や不平をこぼす人。そんな事言ってもどうにもならないのにと思うのですが、どうしてもそういうしょうもないことを息を吐くように口から吐き出さないとやっていけない人がいます。不平不満を相手にぶつけて、その争いを以て自我を認識する愚かな人がいます。競争そのものは悪いとは思いませんが、この人たちは方向が違います。

実際に愚痴を吐き出してどれほど気分が良くなるのか。一歩譲って誰もいない部屋や人里離れたところで吐き出すならともかく、相手がいるところでそれを言えば相手に伝染してそれは間違いなく悪い影響を与える。それが楽しくて仕方がないというサディスティックな人もいるので救いようがありませんが、エゴイスティックなことを言ったり、サディスティックなことをして気分が良くなるのは基本本人だけです。本人以外は気分を悪くすることはあっても良くはなりません。当たり前ですが。自分を勘定に入れさえしなければ、大抵のことはほとんどうまく回ります。

この辺り、まさに「六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり」ではなかろうかと思う次第です。何かするときは自分を勘定に入れない。何か言われたりされても自分が無になる。何かするときに自分を勘定に入れないのは基督教でもイスラム教でも同じ事です。何か言われて我慢したり、さりとて無視してもいけません。我慢はストレスを溜めます。無視は相手の意志を否定します。無になれば相手は水や空気に向かって何をかしているようなもの。そのうち己の愚かさに気付いて恥じ入るようになります。私の経験ではそうです。そういう意味では禅の修行はとても役立っています。

お釈迦様は人は生まれついて口の中に斧を生やしていると言ったそうですが、たぶんこれは上記のことを指しているのだと思います。正しい言葉を正しい時機に最小限に用いること。正しい言葉を使おうと思うよりは、沈黙の効果を良く知った方がいいのかも知れません。沈黙には品位があり荘厳であり、慎ましやかである場合が多いように思います。私が禅で勉強になったのは沈黙ありきでその上で本当に必要なことだけを述べること。行動にプラスアルファでしかないという言葉の位置付け、こんなところが素晴らしいと思いました。

私も普通の人ですから、フッと疲れたところを狙い澄ましたかのように愚かなことでも言われたり、皮肉られれば一瞬むっとします。しかしそれもなくなり、大河の流れのように流せるようになったら、もう少しましな人間に成長するのではないかと密かに思っています。そういう意味では感謝すべきは決して優れた師や友だけではなく、衆生皆、修行には欠かせない、感謝すべき存在なのだと、最近は思うようになって参りました。

平成二十六年葉月二十二日