稽古とは
一よりならい
十を知り
十よりかへる
もとのその一
私は稽古の行程を螺旋階段のように捉えています。
螺旋階段の直径や傾斜角、幅などが、人それぞれの指向性だと考えています。
なので一つとして同じ仕様の螺旋階段はないと思っています。
私の螺旋階段は直径が非常に大きい、傾斜がかなりユルユルの仕様な気がします(笑)。
私はこの句は好きです。
この句の言いたいことは同じ場所に還るもより高いところに位置する、ということだと思います。
同じポジションに戻っては来てもより高いところ、より「それ」を俯瞰しやすい位置に上がることだと思います。
宗家も以前同じ事を言っていました。
進化と変化を同時にできる模式故、螺旋はとてもよい例えに思います。
進化だけではさもしい人間になりそうな気がしますし、変化だけでは向上心がない人間のような気がします。
深化するような進化、偏化しないような変化を心がけたいところです。
流派や個人にも因りますが、稽古は基本的に反復であり積み重ねです。
私的には面白おかしい稽古も十分にありですが、基本的にはやはり反復と積み重ねだと思います。
そこでスルメをかじるが如く稽古を積むことによってその味わいが出てくるのでしょう。
一とか二とかいう節目は、その人の心得次第で撒き餌にもご褒美にもなります。
一で「これだ」と悟り、慢心満足してしまったらその人はそこでおしまい。
一にも二にも三にも気付かずスタスタと通り過ぎる人はもうちょっと外の景色を見ましょう。
一周を終えてより高い、元の景色を見たところで大悟したと勘違いする人もそこでおしまい。
一つ飛びで上がれないから一つずつ踏みしめるしかないと思います。
禅でも悟るまでの修行と悟った後の修行があり、後者は「悟後の修行」と言われています。
悟った後に何をどう修行するのかは、悟ってみなければ分かりません。
時計で言うなら6時が悟り、6時以降が悟後の修行期間に当たります。
まあ「悟り」は何度も訪れるらしいので、それを何度も体験したい人はがんばるのでしょうね。
それを除けば悟後の修行とはボクシングのチャンピオンがタイトル維持の防衛戦をするような感じでしょうか。
分かりません。
私などはいつも確信がないからとりあえず階段をゆるりと上っていますが、確固たる確信や信念を持っている方には本当に頭が下がります。
SD101216 碧洲齋