不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

サムライの後から

明治元年は1868年1月25日から始まりました。これは知っている方は多いと思います。
昭和元年は西暦で言うと1926年、ただしこの年のクリスマス、12月25日から始まった、たった6日間に過ぎません。これはあまり知られていません。
ところで戦前の帝国陸海軍将官の定年は58歳でした。正確には大将だけは定年がなく、予備役になる人が多かったようですが、実戦部隊としての司令官である中将少将がその年齢で定年を迎えていました。
つまり明治元年に生まれた軍人は昭和を迎えた頃に定年になったと言うことです。

明治時代は二つの大変大きな戦争がありました。日本にとって、だけではなく世界的に見渡してもほぼ最初の大規模な近代兵器による戦争でした。
日清戦争では当時世界最大級の戦艦2隻を擁した大清帝国海軍は当時の日本帝国艦隊の倍以上でした。日露戦争は有名ですが、ロシア帝国艦隊は日本の3倍以上の戦力を有していました。
どちらも完膚なきまでに撃破して近代戦史史上希な大勝利をもたらしました。それだけでも素晴らしいことですが、それらを指揮していた司令官たちは全員江戸時代人、若い頃はちょんまげをして刀を差し、将軍や大名に従え、電信技術や蒸気機関はもとより、まともな自然科学の知識すらなかった侍たちだったという点が、何度思い返しても驚きます。しかも見本は欧米のように大航海時代を経験せずに、開国と共にいきなり蒸気機関の時代に突入しました。
にも拘わらず見事に明治維新を迎え(それなりに国内の動乱では被害が出たにしても)欧米に追いつかんと精力的に努力ました。

私が明治時代に魅力を感じるのはまさにこの「和魂洋才」の理想があると思ったからです。もちろん重税に喘ぐ国民や非に新しくなっていくことへの不安もあったでしょうが、周辺全てのアジア国とは全く異なる道を歩むことができたのはとても大きい。明治時代はその精華を発揮した時代ではないかと思った次第。一体江戸時代はどんな教育が成されていたのかといつも不思議に思います。

明治時代を賞賛する為に筆を起こしたわけではありません。
明治時代は政治家にせよ事業家にせよ軍人にせよ、国家として明確な目標があり、まっしぐらに邁進していてその方法は考え得る限り合理的なものでした。政治家や官僚、軍人などは当時としてはかなり合理的でした(そうしないと国家間戦争には勝てない)。
翻って昭和時代、どうやっても勝てなかったかも知れませんが、欧米諸国に対して戦争を始めたものの、それは政治戦略的には全く成り立っておらず、軍事的にもとても勝算があるとは思えなかった状況でした。一番許せないと思うのは体当たり攻撃戦術、のみならず体当たり攻撃をする為の兵器を生産して体当たり攻撃をさせるという戦術。人の命を兵器の部品代わりにして、神風などに代表される精神論を振りかざしたこと。原子爆弾を作れる時代に日本軍はこのような愚かしいことをして、ある意味精神的に退化してしまったとすら思えます。

何を言いたいのかというと「サムライ」が生きていた時代にはそういう愚かしい発想の戦術はなかった。サムライだった軍人たちが退役し始めてからおかしくなったということ。
私たち日本人は何か重要な事を忘れてしまったのではないかということ。
今の武士道は本当に維新前からのものを継承しているのかという不安。
そしてそれは世に役立っているのかという不安。
今後日本が千年続くのかという不安はあります。

私はかなり国際的な方だとは思いますが、それでも欧米式のやり方全てには納得はしてません。ただ明治時代のような勝てる日本式を打ち出せないでいるだけです。

妻の祖母は大正半ばの生まれでしたが、幼少の頃に高齢者たちと会ったことがあると言っていました。50歳以上の人はほぼ江戸時代生まれです。同じ顔や服を着ていながら別種族の人のようだったと言っていました。いつでも優雅で博識で暑さ寒さに一喜一憂せず、優秀な人たちだったとのことでした。なるほどこれなら世界相手に戦っても勝てた訳です。江戸時代人と会ったことがある人の話を聞けたのは大変貴重な経験でした。

これから日本が世界で生きていく為には軍事よりも経済よりもこのような古来から続く理念を受け継ぎ理解して、継承し広めていくことではないかと思った次第です。

令和七年水無月二日
不動庵 碧洲齋

 

四国遍路四十八日目

2025年4月21日

移動距離:38.74km

累積移動距離:1235.97km

札所:78番、79番、80番、81番、82番


昨日は7時少し前に出立、78番札所のすぐ手前にうまいセルフうどん屋があると聞いたので行ってみたが、確かにうまかった。麺の柔らかさが関東人好み。

78番を打ってから次に向かったが暑くなってきた。

79番は天皇寺という恐れ多い名前の寺だが、今までいくつか見てきたように神仏混合の様式がよく残っている境内だった。

80番は山の裾野にあり奈良時代からある古い寺らしい。四国で唯一の国の特別史跡だそうな。そこから山を登り81番に向かった。途中で2日目からほぼつかず離れずだったフランス人遍路と会いSNS交換をして別れた。彼は別格寺も回っていた。81番出たときは15時を優に回っており、次の82番には16時半を過ぎると判断してやや急いだ。

82番では途中一緒だった台湾人の女性と久し振りにまた会ったが、結局彼女は82番は定時には間に合わなかった。82番の後は宿まで5キロ近くあったもののすべて下りのため特に苦労はなかったが、山道から出たときに瀬戸内海が見えた。愛媛で瀬戸内海を見てからずっと曇ったり霞んでいたが、昨日は初めて晴れた状態で瀬戸内海を見ることができた。対岸と点在する島が夕日に映えて大変素晴らしかった。

宿に着いたのは18時を過ぎてから。宿では食事が出ないので先にコンビニに立ちよった。が、一つ失敗したのは宿では簡単な朝食が提供されることを忘れていたこと。買ってしまったパン類は今日の昼食にしよう。宿はできてから5年程度で元々高齢者向けシェアハウスとして設計されており、大変居住性がよい。オーナーも若く話し好きだ。

昨日はまた移動距離の記録を更新した。38.74km、40キロ近い。それほど疲れを感じていなかったのは多分山道と舗装道路両方を程よく歩いたからであろう。問題なのは本日も似たり寄ったりの距離を歩かねばならないこと。ただし本日も山道はあるものの、舗装道路を歩く割合が高い。足にダメージが少なければよいが。

また昨日までで82番札所まで打った。つまり後6ヶ寺を残すのみとなったが、明後日で結願とはあまりイメージが湧かない(笑)


令和七年卯月二十二日

不動庵 碧洲齋

八十八ヶ寺では随一の歴史を誇る国分寺
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たまたま写真を撮ってもらった
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山中にあった81番札所手前の石灯籠
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81番札所護摩堂
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82番札所
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この旅で初めて見た晴れた瀬戸内海
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四国遍路四十五日目

2025年4月18日

移動距離:36.7km

累積移動距離:1175.61km

札所:68番, 69番, 70番, 71番, 72番, 73番, 74番


昨日は7時少し前に出立。朝からやや蒸し暑い。道中小学生の登校に出くわした。地方の学校は早いのか? 7時を少し回ったぐらいの時間だ。

68, 69は隣り合わせというか同じ境内にあり、納経所は一つだ。同じ山号で片方の寺は「院」なのでこちらは塔頭ということか?ともあれ1回で御朱印2個は楽だ(笑)

その次、70番少し道を間違えてしまった。距離にして1キロ程度であるが。高い精度の電子地図でも見ている方の勘違いで間違えることは少なくない。70番には立派な五重塔があった。またここに限らず不動堂や薬師堂がある時もキチンとお参りする。どうもお遍路さんの多くは本堂と大師堂以外は完全無視する人が多いがそれは良くない。

次の弥谷寺までは12キロの道のり。気温が高くなり車道を歩くのでかなり暑かった。途中1回、コンビニで昼食をとった。あちこちにセルフうどん屋がある辺り香川県だと実感させられる。71番弥谷寺は空海が幼少の頃に仏教を学んだ寺として知られており、寺は私が好きな岩山系寺院である。ただし階段も多くややきつかった。大師堂には磨崖仏があり、これは空海が着たときにはすでにあったものだとか。私も岩山系寺院で禅を学んだが、さて(笑)

その後、72番、73番を回ったが、その時点で16時25分を回っていた。で、さらにその次の甲山寺まで35分。ギリ間に合うかと思い予定外の74番に向かった。結局約3キロのうち半分以上走って間に合った。10分近く余裕があった。

大変驚いたのは自分の体調、幾ら走っても息が上がらず、呼吸も苦しくならない。脚もすでにいい感じで疲れていたはずだが幾ら走ってもそれ以上にならず。もちろんこの遍路で鍛えられたのだろうが不思議な感じがした。サイボーグ009で島村ジョーがサイボーグ化された後に自分の体に驚いたときと同じ感じだった(笑)

宿には17時半過ぎに着いた。移動距離はまたしても最高記録を更新して36.7km。この宿は農家をリフォームしたものらしいが大変広く素晴らしい。特に露天風呂。遍路宿なので1人用だがスーパー銭湯の壺湯のような感じ。大変気持ちよかった。オーナーも気さくな方で話しやすかった。

今日は4ヶ寺で明日は丸亀市街で休養日。

 

令和七年卯月十九日

不動庵 碧洲齋

68.69番札所前にいた品のいい猫さん。最後のちゅーるをあげた。
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70番札所の五重塔はすばらしかった。
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香川県うどん大使どの
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弥谷寺の階段
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屋外の磨崖仏
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72番札所に向かう途中
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73番札所の弘法大師はバエる
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74番はこの山の麓にある
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宿の露天風呂
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四国遍路四十三日目

2025年4月16日

移動距離:14.85km

累積移動距離:1107.78km

札所:65番


昨日は8時過ぎにホテルを出立、少し遠回りしてコンビニにて買い物。計4回分の食料とその他を購入。古道に入る前に見事なイブキ(大柏)の木があった。樹齢1200年以上だそうな。つまり平安時代の初期からそこにいたということか。これにはなかなか感銘を受けた。

その後すぐに古道に入り一路65番三角寺に向かった。途中日本人お遍路さんと会って一緒に歩く。三角寺までほとんどが舗装された道路で山道は少しだった。もちろん傾斜も厳しくなかった。

三角寺で参拝を終えると目の前を歩いていたカナダ人のおばあちゃんとドイツ人のおじさんと寺で長話(笑) その後同じ方向なので一緒に歩く。おばあちゃん、よく話す(笑) 政治、文化、歴史、宗教などひっきりなしに。後半はドイツ人に譲って後ろか前を歩いた(笑) 途中で遍路ハウスに到着したので別れる。

遍路ハウスは小さく、比較的新しい。しかし周囲は雑草がやや多く生い茂っている。まあ、タンポポが多かったので良かろう。ネコの石像がよかった。しかし内側はあまり掃除してあるとは言い難く。到着は14時過ぎだったので時間があり、共用部分を掃除した。個人的には遍路は修行なので掃除をすることには特に抵抗はない。風呂場の掃除では洗剤がなかったのでできず。調べたら食器洗剤、洗濯洗剤、ボディーシャンプーのボトルもほぼ空で、トイレットペーパーの換えもなかった。風呂場のマットもなし。掃除といっても雑巾しかなかったのでそれで行ったが、掃除用具ぐらいはそろえておくべきだろう。また寝具も正直あまりきれいだったとは言い難く。食べ物の滲みや何かのシミがあった。宿泊業者としては失格である。

時間があったので久々に坐った。で、不意に玄関から「ごめんください」と女性の声がしたので出てみると若い西洋人の女の子がいた。ヘルメットをかぶっているところを見ると自転車の旅行者のようだった。宿泊を希望していたのでオーナーに電話をしたらすでにもう一つの部屋も埋まっているとのこと。彼女はテントはあるのでトイレとシャワーを貸してほしいというので使わせた。食料もあまりなかったので遍路ハウスにあったカップめんと私がコンビニで買ったおにぎりの一つをあげた。彼女はデンマークから来て大学を卒業したばかりとか。就職前に旅行に来たということだった。以前トランジットで1日だけ日本に滞在した折、大変いい印象があったので今回来たらしい。ちなみにデンマークで一番標高が高いところでもたったの170m、なかなか信じがたい。空手を始めたばかりとのことだったが、当流の話をしたら大変興味を持ち、帰国したら現地の当流道場に連絡してみるとのことだった。いや、勧めない方が良かったか?(笑) で一緒に食事をしていたらイケオジ風のアメリカ人がやってきた。彼が同宿者だった。3人で食事をしたが、彼は人参を丸かじりするとか、アメリカ人だった(笑) 彼はボストン出身だった。ボストンにはまた行ってみたい。9時頃散会、女の子には余っている毛布を渡した。寒くはないが敷くものが多い方が寝やすいと思ったため。

今日は28キロ程度の移動距離で山道。なかなか大変な行程であることが予想される。しかし10日後には自宅に戻っているということがなかなか実感しにくい。猫に会いたいと思う以外はあまり家に未練を感じなくなってきた。これは私が予想したとおりだった、よしよし(笑)


令和七年卯月十七日

不動庵 碧洲齋

樹齢1200年以上のイブキの木、立ち姿も見事
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休憩中に撮ってもらった
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うちの猫には早く会ってモフりたい
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四国遍路三十九日目

2025年4月12日

移動距離:29.07km

累積移動距離:1014.82km

札所:59番


今朝は宿坊なので朝課と説法があった。ここのはかなり長いと有名だが興味があった。出てきたのは昨日の武闘派っぽい若いのではなく、60―70代の知的な感じがする住職。昨日見たのは副住職だったらしい。読経中に目の前に地球儀が置いてあったことに気付いた。それでこの住職はただ者ではないと判断した。

この住職こそ、30年前から四国遍路を世界遺産にしようと言い出した本人で、四国4県の知事たちを動かした。世界を視野に入れた方で、大変高邁な理想を持っている方だった。もちろんご本人も何度か遍路をしている。更にサンチャゴ・デ・コンポステーラにもローマからの招きで行ったことがあるとのこと。現在の宿坊の運営の拙さは住職の奥方が病気でなくなってしまってからだと謝られていた。そして宿坊のあちこちに置いてある作品はすべてその奥様が作ったものだとか。また奥様の遺影は本堂に安置されている。話からも住職の奥様に対する深い愛情が感じられた。

まだ88ヶ寺すべてを回ったわけではないが、この住職が一番の人物ではなかろうか。それはもちろん私の指向性に近いからである。機会があったらじっくりと話してみたいものである。なお住職の奥様の人柄については遍路中に経験者の多くから賞賛されていた。

住職は昔は飢饉や流行病が発生した折にお遍路さんが増えたと言っていた。それはもちろん家族の負担を減らしたり家族に感染するリスクを減らすためである。だから道端の行き倒れになった昔のお遍路さんたちの墓には少しでも気にとめてほしいとのこと。飢えや病で苦しみながら行き倒れた遍路さんたちを思ってほしい。遍路中に自分がしてきたことが認められてうれしい気持ちだった。また本尊の千手観音像は少しライトアップされていたが記念に自由に写真撮影をして思い出として覚えておいてくださいとも述べた。自分はバカなので秘仏とか言う概念が理解できないとも。参加者は住職と千手観音を撮影したが、住職の撮影についてはこんなじいさんを撮影してもおもしろくないと思うんですけど、と恥ずかしがっていた。久々に見た大人物である。ただし四国遍路を世界遺産にするにはまだまだ多くの課題が残されているのも事実ではある。

朝食後、7時半頃に出立、10時頃に59番を打ち、一路進路を南に取り本日の宿に向かった。多くは農道でたまに住宅街を通った。道中先だって発生した今治市の山林火災の跡を見ることができた。私が確認できたのは山頂と尾根が大半だったが、別ルートから歩いてきた人の話だと線路そばまで焼けていたとのこと。当時住民は恐ろしい思いをしたのだと思う。

宿近くのコンビニでは別の遍路さんと会った。彼は私と同じ宿で60番のために連泊していた。彼から色々な情報を得て参考にした。

宿には予定した15時頃到着した。ホテルに近い大きさの旅館でドライブインもあった。この旅館には温泉もある。しかし明日はあいにくの雨だ。9時過ぎまで強めに降るらしい。はやく止んでくれたら助かるのだが。

昨日を以て移動距離が1000kmを突破した。人はやればできるものだと感心しきりである。あと概ね300kmあるが、気を抜かず終えたいところである。


令和七年卯月十三日

不動庵 碧洲齋

さすがに御本尊を御自由に撮影してくださいというのは初めて。神々しかった、いや、仏だから尊いのか。
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四国霊場八十八ヶ寺 第58番札所 仙遊寺住職、この方が四国遍路を世界遺産にと立ち上がった。
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仁王像
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59番札所の本尊は薬師如来、これは境内にあった薬壷。不治の病に苦しむ師匠を想わない日はない。
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山林火災の跡
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次の札所がある山
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四国遍路三十日目

2025年4月3日

移動距離:30.48km

累積移動距離:764.90km

札所:なし


昨日は7時15分頃に宿を一人で出立。天気は晴れ気温もちょうどよく、サンダルを履いた。ルートはトンネルを抜けるコースと峠道を越えるルートがあるが当然後者を選ぶ。峠道は山道だ。

峠道はトンネル入り口すぐ脇にあり、入って少ししてからサンダルから靴に履き替えた。それからまた歩き始めたのだが2,300mほど歩いてから輪袈裟を忘れてしまったことに気付いた。すぐに戻ったのだがそこで一つ気になることがあった。私の後ろ100mぐらいのところを歩いていた老人男性がいたのだが、輪袈裟を取りに戻った際にすれ違わなかった。用を足すために道をそれることができる場所はないものの、1カ所だけ分岐点があったが、道を違えないように枝が少し積まれていて一見してすぐ分かる程度。老人の格好から察するに遍路は初めてであっても登山やハイキングは素人っぽくはなかった。ただ一度追い抜いたときに挨拶しても返ってこなかった(笑) 間違った道を数メートル観察したが、人があるいた形跡はなかったのでそのまま峠道を進んだ。彼が峠道を引き返してトンネルを選んだと思いたい。それほどきつい山道ではなかった。出口が採石場になっていて、重機が稼働していた。またそのすぐ近くの休憩所は市営のゴミ処理施設が管理していてきれいだった。施設内のトイレも使えるようだった。山中にも休憩所があったがきれいに清掃されていて感心し感謝した。街中の休憩所をきれいに保つのですら楽ではないのに山中の休憩所をきれいにしておくというのはかなりの困難を伴う。なおその峠の休憩所には井戸があった、もちろん飲用には向かない。

その後宇和島市の市街地に向かった。あいにく宇和島城は東側からだと林しか見えなかったが仕方なし。よく考えたら距離は短いがここで1泊して休養をとればよかった。鯛飯がうまいとのこと。また大変素晴らしい日本庭園があるらしい。このようなところに「伊達」があったのも何とも不思議だが、色々歴史をひもとくと色々問題があった藩らしい。ともあれ久々に大きな町を歩いた。町外れで一昨日同宿した遍路さんと会った。彼は荷物を宇和島市内の宿に置いて軽装で次の駅まで歩くとのこと。どういうことかというとそこまで徒歩で行けばそこまで歩いたとみなし、一旦鉄道で宇和島市内の宿に戻って翌日荷物を持って同じ駅に行くというやり方。元々は希望する地域に宿がない場合に公共交通機関でルート前後の最寄りの宿に行くということから始まった。私は運良く宿は見つかっているが見つからない人は多い。私は移動に関しては乗り物に乗らないと決めている。

宿は41番札所から東に4km行ったところにある遍路宿だ。最寄りの宿は廃業していた。事前にコンビニで食料を買い込み向かう。宿は農家をしている方がオーナーのようだった。同宿は年配の日本人男性で区切り打ち、四国周辺の方は区切り打ちも多い。関東だとそうも行かない。

左膝右内側が若干痛むので気をつけねばなるまい。本日は予定では20km少々なので負担は軽い。また峠道なども場合によっては避けた方がよいかもしれない。

 

令和七年卯月四日

不動庵 碧洲齋


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宿近くの景色


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こちら側からは見えないが宇和島城(笑)


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宇和島市街、これは違法建築?

四国遍路二十八日目

2025年4月1日

移動距離:23.37km

累積移動距離:705.99km

札所:40番


本日は20キロ程度の移動なので8時に宿を出立した。ルートは古道。最初は山裾を歩いたが、途中から松尾峠に向かい始めると勾配がやや厳しくなった。特になぜか道が葛折りになっておらずまっすぐな部分が多く、登るのがやや大変だった。峠道にさしかかる前に課題の松山市以後の宿で期待ができるところに電話をしたら空室ありとのこと、これは大変助かった。ヨットハーバーの施設である。電話中に台湾人のYさんとまた会った。四万十川川下りでなんとスマホを川に落としてしまったそうで新たに買い直したりして大変だったようだ。話しながら松尾峠を目指した。松尾峠では偶然オランダ人の仲間もいた。本日はこの3人は同じ宿に泊まる。下りは私の方が早いのでまた距離があく。途中コンビニで昼飯を食べるために立ち寄ったが特に疲れていないので食べてからすぐに出立した。

途中で峠越えで挨拶したおばさんが道を間違えたらしく違う道から戻ってきた。彼女は数回経験があるベテランで東京新宿から来た。札所近くまで一緒だったがそれまで私は色々身の上話などをした。

40番札所で参拝を終えるとすぐ近くの宿に行った。開業大正元年ということは110年以上の歴史があるということか、遍路中もっとも古い旅館だろう。建物もかなり古い。もしかすると昭和戦前とか。天井が低い。とはいえもちろんきれいに清掃されている。風呂は他の宿でも見た3人ぐらいは余裕で入れる湯船があった。マッサージチェアもあった。

宿に着いてからコンビニに買い物に行こうとしたが最寄りのコンビニが550m以上もあったので、300mぐらいのところにあるモンマートにした。しかしこれは失敗だった、貧相な品数しかなく、カップラーメンと2,3のパンを買っただけだった。面倒でもコンビニにするべきだったが今回はこれで我慢する。近くに食事ができるところもない。

なるべく食事を出してくれる宿に泊まっているがたまにやむなく素泊まりもある。

明日は宿から宿への移動のみで標準の25km前後の距離。


令和七年卯月二日

不動庵 碧洲齋


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平成になって作られた石柱の案内


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現地の小学生が書いた案内、胸アツになる


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高知県から愛媛県へ


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みんなと休憩中


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道中


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札所境内の十三仏石像