不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

新約聖書の言葉から

私は基督教徒ではないのでイエスキリストが神の子だったとは思っていませんが、人類で一番、愛を具現化させた人だと思っています。彼は本当に100%ピュアな愛を持っていたと信じています。そういう意味では神に最も祝福された者だという意味で、神の子だったと思います。 それ故に他人を助けずにはいられなかった。それが若くして殺されてしまった理由のような気がします。お釈迦様のようにあるいはただ一人の修行者として、活動していたら殺されなかったかも知れません。しかし逆に考えればたった数年の布教活動がお釈迦様の何十年もの活動に匹敵するぐらい力があったことは特筆すべき事です。 私のイエス観は遠藤周作氏から来ています。無力でどこか疲れたイエスです。しかし彼の言葉や所作は、どんなどん底の人をも救ってしまうような、そんな存在だったように思います。 私が選んだ聖書の句はやはり武芸者として納得できるものが多いのは言うまでもありませんが、それと関係なく自分の生き方に重ね合わせて感銘を受けた句もあります。 自分の義を、見られる為に人の前で行わないように、注意しなさい。 マタイの福音書6-1 *私たち個人であれば、財産や容姿、功績や徳行を見せたがります。せっかくの立派な行いも人に見せることを前提にしていれば、価値も半減。むしろ固く隠して漏れ出てくるぐらいの方が義にかなっているのではないかといつも思います。 目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 マタイの福音書6-22 *これはもちろん、顔に付いている眼のことではありません。正しい心で正しく見ることそのものかと思います。正しい行い、正しい見方をする限り、大過なく生きられるということだと思います。 何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思い煩い、何を着ようかと自分お体のことで思い煩うな。命は食料に勝り、体は着物に勝る。 マタイの福音書6-25 *本質を見定めていると、本質的なこと以外ではあまり悩んだりしなくなるものです。日頃の煩い事は本当に本質的なものかどうか、今一度確かめてみたいものですね。 あなたがたのうち、誰が思い煩ったからとて、自分の寿命を僅かでも延ばすことができようか。 マタイの福音書6-27 *結局何を失ところで自分の寿命が延びるわけでもないと思えば、落ち着けるというものです。 狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていく者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない。 マタイの福音書7-13 14 *有名な文句ですが、真理への道は概して狭いことが多いものです。私が指南を受けている禅寺も、車が入れないほど狭い道の突き当たりにあります(笑)。 口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。 マタイの福音書15-11 *この句はいつも頭に浮かんでくる句の一つです。考えさせられます。 しかし、最後まで堪え忍ぶ者は救われる。 マタイの福音書24-13 *忍耐の上に待つことを知る人が、結局は救われると言うことなのでしょうが、待つにしても後述のローマ人への手紙にあるように、ただ待つだけではなく、希望を抱き、艱難すら喜んで受け入れる積極性が必要なようです。苦労は買ってでもせよということですね。 剣を取る者は皆、剣によって滅びる。 マタイの福音書26-52 *武芸者は須くこの句を胸に刻んでいなければならないと思います。私はよく、この句を思い浮かべます。 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。 ルカの福音書6-32 33 *新約聖書の中で一番好きな言葉です。同じ意味の句がマタイの福音書5-46にあります。真実の愛というものがどういう性質であるべきものなのか、良く表わしていると同時に、本物の愛ぐらい厳しいものはないと思う次第です。 少しだけ許された者は、少しだけしか愛さない。 ルカの福音書7-47 *誰もが自分には甘く、他人には厳しくなりがちですが、そうならないように気をつけたいところです。 あなたは多くのことに心を配って思い患っている。しかし、無くてはならぬものは多くはない。 ルカの福音書10-41 42 *これは禅的な表現でもあります。本質的に必須なものは実はそんなに多くはありません。今一度、本当に必要なものは何なのか、よくよく考えてみたいところです。 あらゆる貧欲に対してよくよく警戒しなさい。たとえたくさんの物を持っていても、人の命は、持ち物には困らないのである。 ルカ福音書12-15 *聖書でも重ねて物質的な多さに対する戒めが書かれていますが、人はそのくらい、ものに対する飽くなき欲求が強いということでしょう。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。 ヨハネ福音書3-8 *これも私が好きな句です。とても禅的な感じがします。 人がその友の為に自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 ヨハネ福音書15-13 *これはよく息子に言って聞かせます。ただ死ぬこと愚かなことだが、誰かのために死ぬことがあれば、それは賞される行為だと言い続けています。 金銀は私には無い。しかし、私にあるものをあげよう。 使徒行伝3-6 *元来人は、金銀に依らないものを欲しがるようにい思います。これさえあれば、人は幸せなのだと思います。 私たちは…艱難をも喜んでいる。何故なら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生みだし、練達は希望を生み出すことを知っているからである。 ローマ人への手紙5-3 4 *ただ耐えるだけでは辛い。何のためにそれをせねばならないのか認識があれば艱難の意義や忍耐のありがたさも分かるというもの。そうありたいものです。 望みを抱いて喜び、艱難に耐え、常に祈りなさい。 ローマ人への手紙12-12 *私の卒業した高校は普通の公立でしたが、学校の壁にいつも「望みを抱いて喜び、艱難に耐える」の句が掲げられていました。その時は鼻で笑っていましたが、今に至ってこの言葉の素晴らしさを実感しています。 「私たちはみな知識を持っている」ことは分かっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 コリント人への第一の手紙8-1 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどのことすら、まだ知っていない。 コリント人への第一の手紙8-2 あなたがたのあった試練で、この世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを、耐えられないような試練にあわせることがないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである。 コリント人への第一の手紙10-13 全ての事は許されている。しかし、全ての事が益になるわけではない。全ての事は許されている。しかし、全ての事が人の徳を高めるのではない。 コリント人への第一の手紙10-23 たとえ私が、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、やかましい鐘や騒がしいと同じである。たとえまた、私に予言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。たとえまた、私が自分の全財産を人に施しても、また、自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である。 コリント人への第一の手紙13-1 2 3 愛は寛容であり、愛は情け深い。また、妬むことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。 コリント人への第1の手紙 13-4~8 いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 コリント人への第1の手紙 13-13 一切のことを、愛を以て行いなさい。 コリント人への第1の手紙 16-14 私たちは、肉に在って歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。 コリント人への第2の手紙 10-3 *コリント人への手紙は新約聖書の中でもよく知られている章ですが、どんな献身的なことをしても、どんな奉仕の心や信仰があっても、愛がなければ意味がないという辺り、基督教の奥義をよく語っていると思います。 互いに忍び合い、もし互いに責むべきことがあれば、許し合いなさい。…これら一切のものの上に愛を加えなさい。 コロサイ人への手紙 3-13 14 *これもコリント人への手紙と同じく、ただ許し合うだけではダメだというところが基督教の深いところでもあります。 私たちは、何一つ持たずにこの世に来た。また、何一つ持たずにこの世を去ってゆく。 テモテへの第1の手紙 6-7 *これは仏教でもよく言われることですが、こういった事実をいつでも思い返せれば、愚かな物欲に引きずり回されることもないと思います。 試練を耐え忍ぶ者は幸いである。 ヤコブの手紙 1-12 人は全て聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきである。 ヤコブの手紙 1-19 舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。 ヤコブの手紙 3-5 あらゆる種類の獣、鳥、地を這うもの、海の生物は、全て人類に制せられるし、また制せられてきた。ところが、舌を制し得る人は、一人もいない。 ヤコブの手紙 3-7 8 *ヤコブの手紙もなかなか耳の痛い句が多い章です。その中でもこれら三つの句はいつも考えさせられるものです。 平成二十五年弥生十五日 不動庵 碧洲齋