この世の中に完全無欠の先生はいません。
先生の技や精神を完全無欠に受け継げる弟子もいません。
いたとしてもそれは「全然意味がありません」。
流儀を完全コピーする、それなら今やIT機器の方が遥かに高精度、多角的だからです。
現実にはそれぞれ不完全な部分を補完し合うべき組織や流儀の弟子たちがいるだけです。
故にこの調和が見える人だけが「よく見えている」と言えます。
道と呼ばれる芸事はこれらの集大成です。
そしてその調和が長く保たれた流儀のみが時代の流れに乗ることが許されている。
たった1人の天才によって立脚されたものだとしても、それを継承させる以上は大勢の凡人です。
一人二人の天才を恃んで一流派の継承は絶対にできません。すべきではありません。
スケールダウンしてみて下さい。
完全無欠な顔のパーツ、四肢、頭脳、声を持った人間はいるでしょうか?
いません。いるはずもありません。仮に万人を納得せしむ容貌の人間がいたとしても、その子供は?
流儀の継承をスケールダウンするとそのようになります。
逆にスケールアップしてみて下さい。
宇宙には数千億以上の惑星があるそうですが、完全無欠な惑星は宇宙に存在しますか?
見たことがなくとも多分ほぼないと言ってよさそうです。
宇宙は全て不完全なものの調和で成り立っています。
我々人間が無知未知故に、不完全だと思い込んでいるものの調和で成り立っていると言ってよいでしょう。
それが私たちの限界です。
その一つ一つの不完全さに寛容でないことに一体どれ程の価値があるのか。
そもそも自分が絶対ではない以上、完全であるかないかの判断すらおこがましい。
善悪の判断、良し悪しの判断をするときは、我が身に立脚したものでないかどうか、よくよく想いを致す必要がありそうです。
特に技量において、上手い下手を安易に判断すべきではない。
深く広く長く高く観察して洞察した上で、神技を繰り出せる人間などそうそういないものです。
うまいと見えて下手だったり、下手と見えてうまかったり。相手のの能力に比べて自分の観察力と洞察力が優れた場合にのみ、正しい判断が下せる。私はいつも考えます。
むろん技量だけで判断されるべきではないことは言うまでもなく。
武芸で云えば技量に優れた人格欠陥者はただの凶器です。そこまでひどくなくとも安全装置が壊れた武器かも知れません。
故に特に武芸においては人格の陶冶も両輪の如く重要です。
ふと今日はいささか思うところ是在り。
一武芸者の戯言とお嗤い下さい。
平成二十九年卯月三十日
不動庵 碧洲齋