不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

重歳と我以外皆師也

年齢が上がってくるほどに構えて心すべきものと思うことがあります。

それは「教え慣れること」。門下で年齢が上がれば当然教わるよりも教えることの方が多くなるのは自然の理。若い頃は先輩方からあれやこれや言われてきたことがいつのまにかなくなって、自分が後輩に教える方が増えていきます。

当流の場合、段位のパッチなど着けていない限りはその人がどれ程の技量なのか分かりません。初老でも入門が遅かったり、若くとも入門が早かったりすることで技量も年齢に比例しません。

そういう状況下で相手の技量を見極めるのも重要な稽古であるとは心得ています。年の功に因るところ大ですが、最近はほとんど外れないような気がします。

で、時折、お節介にも頼まれもしないのによその道場で教えたがる人や先輩風を吹かせたがる人がいるものです。

そういったときにどう対処するか、これは高段者であれば考えるところだと思います。

昔はイラッとしたものでしたが、今は「はいはい」と低姿勢で受け、それなりの技量であればいいところは盗みます(笑) 稽古相手が巧かったら儲けもの、下手なら下手なりに得るものはあるという事。吉川英治は「我以外皆師也」と言っていましたが将にその通りです。

私もかなり性格は悪い方なので、相手に好感が持てない場合はどんな下手な技を掛けられても、相手がそれを自覚しないようにうまく受身を取ります(笑) だから自分のしていることや技量に疑いを持たない。もっとももとより自分の技量に絶対の自信があるから厚かましく教えたがるものですが。(笑)

好感が持てる相手にのみ微妙に自分の技を見せます。途中で「おや?」「アレ?」と思う人は観察眼があり謙虚です。自分の技量に常に疑いを抱き、信用しない。そういう人は得てして自覚がなくともなかなかに上達する人が多い。上達しているかどうかは別として私も自分の技量には常に疑念を持って接しています。そんな方の中で私に礼儀正しく尋ねてくる場合にのみ、親切に助言することにしています。私は親切ではないので、頼まれもしないのに基本教えません。道場では私も同じ金額を支払っていますから、私の稽古にならないことに労力は割きたくないというのが本音です。故にこれぞと思う人にのみ助言をします。厳しいようですが私は聖者でも仁者でもなく、一介の武芸者に過ぎません。自分の稽古でいっぱいいっぱいです。まあ、古参として最低限の配慮はしますが。

「巧くなりたい」という志は自らを謙虚にさせて観察眼を養い、正しい道に導きますが、「私は巧い」という確信は得てして道を誤らせるものです。日々気を付けたいところです。

画像

平成三十年文月二十八日

不動庵 碧洲齋