不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

黄泉がえり

黄泉がえり」は1999年に発表された梶尾真治氏の小説で、2003年に映画化されました。そういえば1999年は母が死んだ年、2003年は息子が生まれた年になります。

映画では観てませんが、DVDやテレビで何度も観ました。何度観ても不思議な感じがします。

宇宙海賊キャプテンハーロックはマンガの中でこんな事を言っていました。

「天地宇宙万物の真理の中でたった一つだけ気に入らないことがある。それは死んだ人間が生き返らないことだ。」

死んだ人間は生き返ることは普通はありません。

2010年秋頃でしたでしょうか。私のブログにひとりの老婦人からの書き込みがありました。

何度か書き込んで頂いたので、メールアドレスを伝えてからメールでやり取りするようになりました。その時彼女は77歳でした。

彼女のご主人は北海道で寒冷地の研究をしていたのですが、1964年に米軍に招聘されて渡米しました。その後、彼女も子供たちを連れて軍用機で渡米したそうです。そしてそれ以後、ずっと米国はニューハンプシャー州に住んでいました。

何度かやり取りする内に私は彼女のものの考え方に非常に共感するようになりました。今の日本人には失われつつあるような、古風で気高い日本人の誇りを感じました。彼女は60歳で空手や弓道を学び、禅なども行っていたようです。

年齢的には私の父よりも2歳年上。私の父母と同じ戦前の世代、戦時中は小学生の子供という世代です。

それから彼女には色々なことについて相談したり、時にはグチを言ったりしました。

昇段した折には、米国で譲り受けた仏像を記念にと、私に贈ってくれました。その仏像は江戸時代、現在の滋賀県彦根市にあったとある商家が京都に移り住むに当って、当時の彦根藩藩主の菩提寺であった宗安寺から、切支丹ではないことを証するために渡されたものでした。その後、その商家が嵯峨に移り住み、何かの折に嵯峨の清涼寺に納められました。その後、昭和の初め頃、清涼寺の近くに住んでいた同志社大学で教鞭を執っていた米国人教師家族が帰国する折、清涼寺の住職が記念にその仏像を手渡したとのことです。

その米国人教師の娘さんがその老婦人の友人で、友人の証としてその仏像を贈られたという事でした。そしてその仏像はまた、日本に戻ってきました。

その仏像は戦争を挟んで二度、海を渡りました。今は我が家の仏壇にて祭られています。

画像

別の折には水入れを頂きました。ご友人の日本人の作だそうです。これもまた、私の部屋に飾ってあり、妻が茶席を用意した折によく使っています。

最後にメールを頂いたのは1月半ばでした。しかし1月末に79歳で他界してしました。フェイスブックの彼女のタイムラインにはお悔やみが色々書かれていましたが、同月にメールを頂いたばかりだったので、全く気付きませんでした。最近はフェイスブックの友人の数も増え、少し前のように頻繁に見て回れなくなりました。友人の数が多いことは友人がいないことだとアリストテレスだか誰だったかが言っていたと思いますが、まさにその通りですね。気付かなかった自分自身に腹が立ちます。

訃報を聞いたときはさすがに衝撃的でした。もちろん高齢であったことは知っていましたから、そのうち訪れてみようとは思っていました。本当に残念です。

交流があったのは3年程度でしたが、その間、私は彼女は他界した母が私のふがいなさを見かねて天より遣わしてくれたように感じていました。彼女のご長男は私よりも数歳上ですが、名前に「晴」が付くそうです。我が家でも父、私そして息子も同じ漢字が使われています。そういうこともあって彼女からは家族のようにしてくれましたし、私も他人のように思えませんでした。実際に会ったこともないし、話したこともないのに母が甦ったかのような錯覚を持ったこともありました。そういう気持ちにさせるような方でした。

私の歩みが安心させるに十分だったと思われたのでしょうか、よく分かりません。どうして最後に一目でもお目にかかることができなかったのか、一度他界した母だから、二度目は見ることができないからなのか、よく分かりません。今のところこれが一番、自分自身で納得できる理由のように思います。今でもその問いは頭の中を駆け巡っています。

まだ意気消沈している自分がいますが、あらゆる事には必ず理由があると思います。そしてその理由は探して見つかるものではなく、自分の道を歩む内に分かってくるものだと思います。いずれ分かることも来ることでしょう。

平成二十六年弥生二十七日

不動庵 碧洲齋