不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ラーメンをすすりながら仏談義など・・・

昨日は妻がいなかったので、息子と二人でカレーを作ろうと思ったのですが、帰路に書店などに立ち寄り時間もなかったので、野菜と肉などをたっぷり入れたインスタントラーメンにしました。

ラーメンをすすりながら息子が尋ねました。

「仏ってさあ、たった一人なんだよね?」

「ああそうだよ」

「でもこんなに人間や動物とかたくさんいるのに、何で動かせるんだろ」

「仏は一人だけど、一人二人の意味の一人じゃないよ」

「ああ、全部の一人ってことか。全部の一人だから宇宙全部なんだよね。」

(凄い答えです、確かにその通り)

「仏は俺たちなんだよね?」

「そうだ、仏が俺たちをしているんだ」

「でも誰が一番仏に近いんだ?」

「誰だと思う?」

「赤ちゃん、だって仏からやってきたばかりだから」

「そうだな、赤ちゃんは仏そのものだな」

「赤ちゃんは悟っている?」

「悟りそのものだ。俺たちも実は悟っているらしい。悟っているけど、それを知ろうとするのがいわゆる修行らしいよ。」

「ふ~ん、大変だね。」

「悟りの修行途中でも色々気付く。それがよくて俺もやっているようなものだからな。」

ブッダって全部悟ったの?」

「そうだな、世の中のこと全てだな」

「全部って?」

「生きていること、年を取っていくこと、病気や怪我をして痛いこと、死ぬこと」

「東京のお坊さん(禅の師匠のことです)も悟ったの?」

「もちろん、何度も悟ったから老師になれたんだ」

「すごいよねぇ~」

「どっちが?」

「どっちも。でもブッダはみんなも悟らせたんでしょ?」

「そうだな、説法をした人みんなを悟らせた。何人も人を殺した悪い人まで悟らせた。前に話したアングリマーラだって悟らせてしまった」

ブッダは自分は何者か分かったってことだよね?」

(凄い質問をする奴だな)

「そう、自分で自分がなんなのか分かったってことさ・・・自分で自分を見た人はいないのに、自分が何なのか分かる人は本当の聖人だ」

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「そうか・・・自分で自分は見えないんだよね」

「うん、俺はお前を見ることができる。でも誰も自分自身を見ることができないんだ。だから自分で自分を自分だと思うことが間違いなんだ。今の時代は安全のために自分が自分であることを証明しなきゃいけないことがいっぱいある。本来それは間違っている。間違っていることをたくさんさせられているからおかしくなっちゃうんだろう。」

「そうだよね、いちいち自分だ自分だなんて考えてたら変になりそうだよね」

「だろ?お前が遊んでいるとき『おお!俺は遊んでいる!』とか、ご飯食べているとき『俺は今、食っている』なんて思わないよな?」

「うん、ただ遊んでいたり、ただ食べていたり・・・」

「そう、お前なんていないんだ、遊んでいるときは遊んでいることそのもの、食べているときは食べていることそのもの、それしかない。その中にお前はいない、そういうことをしていたら、自分がいる必要はないからな。」

「うん、確かにそうだ。遊んでいるときに『俺が遊んでいる』なんて考えないから、俺はいないんだよね」

「だろ?」

「じゃあ俺は本当はどこにいるんだ?」

「いい質問だ。宇宙戦艦ヤマトでオルタがアナライザーに質問したよね『あなたは誰ですか?』」

「で、答えは?」

「アナライザーの答えだ。あれが正しい。『私はあなたの友達です』オルタが唯一、オルタであり得た理由は、アナライザーが友達だったからだ。俺たちみんな、そんな感じで自分だと思えているだけさ」

「・・・」

「お前は誰だ?俺の息子、学校の友達、ジイジやおじいちゃんたちの孫、その人達がお前を知っている、大事だと思っている、もしお前がいるとしたらそれがお前だと思う。お前の中にお前はいない、誰かの中にお前がいる。だからお前の中に誰かがいる。誰かがいるからその誰かを大事にしなきゃいけない。」

「そうか、俺の中に誰かがいるから大事にしなきゃいけないんだね。」

「お前は小学校に入る前にはよく悟っていた。心で今言っていたことを理解していた。でも学校に入ってから頭で理解するようにさせられてきているんだ。それは仕方がない。でもよかったことは、まず最初に心で理解したことをもう知っている。だからこれから頭で理解しようとしても不安はない。いつかきっと、大人になってまた、心で分かる必要が出てきたとき、心で分かるようになる。そしてまた友達で悩んでいる人がいたら、お前が心で分かったことを話してあげればきっと助けてあげられるだろう。」

ラーメンをすすりながら、そんな話しをしていたのでした。

平成二十四年霜月二十一日

不動庵 碧洲齋