不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

人はなぜ生きるのか

今日、たまたま息子を迎えに学童まで行きました。

息子を乗せて、何かのきっかけで人はなぜ生きるのか、という話になりました。

私は孔子が弟子から尋ねられた国家に必要な三つのたとえ話をしました。

「その昔、孔子は弟子から『国を維持するのに必要なことは何ですか?』という質問にこう答えた。『軍事力・食料・信義』弟子は更に『そのうちどうしても一つ削らねばならないときは?』という問いには『軍事力』と答えた。弟子が更にもう一つ、と尋ねると孔子は『食料』と答えた。人は信義を守るために生きるのであって、その逆ではない。」

息子はすぐに理解しました。

「そうだよね、軍事力があって、十分食料もあるのに信義がなかったら中国みたいな国になっちゃうんだよね」

孔子を例に挙げたのに、息子の答えは何とも中国に強烈な皮肉を与えました。

私も苦笑せざるを得ませんでした。

「うん、日本はアメリカと戦争をして負けた。軍事力も食料もなかったけど、信義を捨てなかった。これが今の日本がある理由で、中国とは決定的に違うところだ。これは良く覚えておきなさい。」

どこぞのサバイバルマニュアルの筆者だったら、まず生き延びること、なんて言うでしょう。それも合ってます。まず生き延びること、その気持ちを持ちながら、信義のために死ぬこと。私はそう解釈しています。

息子には信義を捨ててまで生きてはならないとよく言います。そしてそれで死んで欲しくないが為に色々生き延びる知恵を与えています。

『そのとき』までは絶対に生きねばならない理由がありますが、サバイバル術とはそのときまでのものであることを知る必要があります。昨今、簡単に死ぬ人が多いのは、多分、生きて果たすべき信義が見えていないからのような気がします。結婚して子供がいれば、その信義が何であるか、これまた理解を促すものだと思います。

死ぬべき時までは生き延びるべし、端的にはいつもそのようなことを言っています。

そして死ぬときは神様とか仏様が決めることであって、私たちが与り知ることではない。私たちが与り知ることは、その瞬間その瞬間を真摯に生きることだけ、一生懸命に生きることだけだとよく語ります。

それはとても難しい。よほど修行に打ち込んだ雲水でもやっとできるかどうか。しかしそれを追わずしてものの道理が分かろうはずはありません。その昔お釈迦様はその真理を悟られました、というようなことを息子に話聞かせます。お釈迦様が悟った真理はやはり言葉ではない、口を酸っぱくしてよく言いますが、言葉でないだけに息子とよく、お釈迦様が悟ったことに思いを馳せることがあります。

息子はまだ世に出てから10年弱、私よりずっと仏に近い存在です。

そう言うと息子はいつもうれしそうにしています。

今の私の年齢が一番、仏から遠いのかも知れません。

故に仏心を持つことを心がけ、仏道を息子と歩む毎日に感謝します。

人は何のために生きるのか、何のために死ぬのか、これからも息子にはずっと考えて欲しいと思います。

平成二十五年如月十八日

不動庵 碧洲齋