不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

悟った人が枯れた花を見たら何とする

息子が突然出してきた現成公案です。

「そんなもん、俺に分かるか~っ!」

私の答えはそんなものでしょうか(爆)

とはいえ、私なりに答えました。

東名自動車道を通る時、いつも薩埵(さった)トンネルで息子に庵原平四郎の話しをします。

庵原平四郎とは、江戸時代、白隠禅師がいた時代の人で、在家でありながら悟りを得た人として知られています。

私もあの話しはとても好きですね。

今回は息子に「相対的視点」と「絶対的視点」について、禅の視点で色々話しました。

まあ話すと長くなってしまうので省略しますが、日頃からよく質問するだけあって恐るべき理解力です。

自我という錯覚の波、仏という名の海、自分で認識できない自分という存在を認識しかできない相手と比べることのおかしさなど、今回は延々1時間以上に亘って熱心に語りました。

今回特に話したのは「無」。

無はどうやって分かるか?

どうして無なのか?

生まれてきたのに死にまっしぐらに進んでいき、そして確実に死にます。

無に還ります。どうして?

私は今回、お寺の鐘を喩えに使いました。

鐘は中が無だからこそ良く音が鳴ります。

何かが詰まっていたら鳴りません。

ではどうやって中が無であることを証明するのか?

鐘の中に何かをいっぱいに詰め込み、そしてそれを取り出します。

何もなくなるときれいな音色が広がって、周囲の人たちに知らせることができます。

自分が無だからです。

何かを詰め込む作業は勉強とか仕事とか色々あるかも知れません。

だから生きている間何かを学んだり覚えたことはやがて、素晴らしい仏の音色にして、みんなに聞かせる為に今度はどんどん捨てていくのだと説明しました。

まあ捨てるとは忘れるという意味でも、廃棄すると言うことでもありませんよ。

「私」が「知識・経験」を、という相対的な考えを捨てる、という意味で教えました。

遠回しに三昧について説明しましたが、どうやら息子はその感覚をおもしろがり、何度も思い巡らせていました。

老子にもありますが、門も「無」だからこそ通れます。

門に何かあったら通れません。

無の有用性をやや具現化しているきらいはありますが、道家の説明は正しいと思います。

そして仏教で言う無は「有」の反対の「無」ではなく、有無がないという意味の無、つまり絶対的視点の無、ということを話しました。

とてもよく理解したのには私も驚かされましたが、私は悔し紛れにお前は仏から別れてまだ10年も経っていないからよく分かるんだ、と言ってやりました(笑)。

私の禅の師二人は老師ですからまさに何度も見照しています。

息子は悟るプロセスに非常に興味を持ったようですが、これは大人になるまでずっと想い続けて欲しいですね。悟ったら宇宙飛行士を諦めてぜひとも臨済僧にでもなってくれと言いました。(爆)

多少意識的に後ろに座っていた妻にも聞こえるように話しましたが、こんな話しは日常的に息子と良くしています。

方法論や道は自分で見つけるべきだと思います。

親がすべきはそんなことを分からせることではありません。

答えのない問い、問いが分からない答え、世の有り様そのままを一緒に考えてあげることだと思っています。

私は僧侶ではないので、自分の浅はかな経験から分かる範囲で息子に語りましたが、いつか庵原平四郎のようになりたいと思って修行に励んでおります。

平成二十四年皐月七日

不動庵 碧洲齋