私は大抵、息子と風呂に入ります。
今日は、たまたま、洗面台の前で息子がじっと鏡を見ていました。
「ん?どうした?」
「なんか鏡って不思議だよね。自分をそっくり映すんだから。」
「それでも左右が反対さ。正しく写すものなんてない。」
「ああ、そうか。そうれじゃあ、自分で自分をそのまま見える人はいないんだね。」
「いないな。世界中の人は自分で自分を見たことがない人ばかりだ。ちゃんと見えるのは他人だけ。」
「なんか不思議だね。」
「自分は”見る”ためじゃなくて”する”ためにいると思えばいいよ。いつも見えない自分と見える他人を比べたり争ったりしていると、心がさもしくなる。」
「なるほどね。見えた人はいないの?」
「悟りを開いたお坊さんは見えるんだろうな。」
「そういえばどうやって悟ったのが分かるんだっけ?」
「公案を解くんだ。例えば『無を見てこい』とか。」
「そういうことか。・・・」
実はこの後、息子はなかなか賢い答えを返したのですが、扱うものが公案なので、どんなものだったかは控えさせていただきます。(笑)
自分を認識する努力よりもしなければいけない努力があります。
こういう世の中だと、嫌でも何でも自分を認識させられてしまうことが多々あり。
自分が何を以て自分なのか、益々訳が分からなくなります。
「自分は『心』がそう言っているからじゃないの?」
「心はどうやってあると分かるんだ?」
「今俺がしゃべっているのは心があるから。」
「いや、しゃべっているものがしゃべっているだけだ。それを心だと思っているだけだ。東京のお坊さんの言葉だけどね。」
「うまいとか、いたいとかも?」
「そうらしい。心が痛い、とか、心がうまい、ではなくて、痛みが痛さを感じていたり、うま味がうまさを感じているんだそうだ。」
「ふうん。」
「お前が赤ちゃんだったとき、お腹が空いても、おむつが濡れても『おぎゃー』だった。それは心がそう言っているんじゃなくて、空腹や不快感がそうさせていると思えばいいんじゃないかな。」
「そうか、それがそれそのものだったら、それが仏様なんだね」
「お前はちょっとだけ、自分で自分が見えるようだな。」
後はそんな小難しい問題などキレイサッパリ忘れて、水掛ごっこと相成りました。
平成二十五年弥生十四日
不動庵 碧洲齋