先週初めのことでした。
何かの折に息子が私に質問してきました。
「あのさ~、福島の福って、豆まきの時の福だよね?」
「ああ、そうだな」
「福って良い意味なんだよね?」
「そうだなぁ・・・幸せとかラッキーとかいう意味だな」
「じゃあさ、なんで福の島なのに地震とか放射能でみんな苦しんでいるんだろう・・・。」
私は返す言葉がありませんでした。
確かに息子の言う通りです。福島の意味は「幸福の島」であったはずです。
それなのに世界的に見ても、最も危険で恐ろしい場所の一つになってしまいました。
私は日常的に毎日、1柱30分程度は坐るようにしているのですが、息子のこの問いかけを解きたいと思い、倍の時間を坐りました。
東日本大震災からちょうど1年目になる日曜日の朝は坐禅会がありました。
いつになく集中して坐った気がします。
帰宅後、息子と二人で仏壇の前に座り、犠牲者たち、被害者たちのために読経しました。
そして読経を終えると息子に仏壇の大日如来と不動明王を取り出すように言いました。
「これは何だ?」
「大日如来・・・」
「こっちは?」
「お不動様・・・」
「そうだな、大日如来の別の姿がお不動様で、お不動様の別の姿が大日如来だ」
「うん」
「大日如来とお不動様って何だ?」
「仏様・・・」
「そうだな、豆まきの福は良い悪いの福、福島の福は・・・仏様の福だと思う。」
「仏様は人間の都合で良いことと悪いことを起こしたりしない。だって宇宙は人間のためにある訳じゃないからね。」
「仏の波が起こっているだけなんだよね。」
「そうだ。波が起こっているだけ。本当にそれだけなんだと思う。良いことも悪いこともみんな仏でできているありがたい波だ、多分、それが福島の福の意味なんだと思う」
息子はしばらく考え込んだ後、ぽつりと
「でもたくさんの人が死んじゃったね」
と言いました。
「うん、死んだ命、生きている命、どちらも同じ尊い命だ。生まれたり死んだりすることは自分たちでは決められないから、これも仏がしているんだろうな」
「ああ、俺も仏がしている姿なんだよね」
「うん、そうだ。だから生まれた、死んだということに喜んだり悲しんだりしても、これはみんな、仏様がしていると言うことだと信じたいね」
「うん・・・」
「前にさ、お前に聞いたよね、『仏はどこにいる』って。覚えてる?」
「良く覚えてない」
「で、お前の答えがさ、『それはパパだよ』だったんだ」
「ああ、なるほど、でもその答えはおかしいね。仏が仏に質問しているんだから」
私もおかしくなりました。
「そうだよな。仏様が仏様に向かって、『お~い、仏様はどこにいるんだっけ』て聞いているようなものだからな。確かに笑えるな」
確かに自分で言ってておかしかったですね。
「だからさ、木でできていたり、銅でできていたり、生身でできていても仏は仏だ。この仏像も最初から尊い訳じゃない。パパやお前が毎日毎日一生懸命に祈るから尊くなっていくんだと思う。そしてそれが一番高くなった時に仏様を悟れるのかも知れないけど・・・。禅のお坊さんみたいにまだ悟ってないけど、悟れるまでそうだと信じることにするよ。その方がいいような気がする」
「そうだね、悟れるといいね」
これが大震災1周年で息子と仏前で話した内容です。
半ば老師からの受け売りですが、命に関する根幹的な問題には全身全霊を以て息子に応えたいと、いつも思っています。
こういう問題は大人になるまで小さな棘のように心に突き刺さり、いつまでも息子の心で思い起こしてもらえればと思いました。
平成二十四年弥生十二日 不動庵 碧洲齋