水遁の術は水に潜る術と解されていますがそれは間違いです。
水遁の術の奥義は「溺れないこと」。
水に溺れないのはたくさんある方便の一つに過ぎません。
これは以前、宗家も幾度か語っていました。
例えば真冬に城に忍び込めと指令を受けた場合、いくつもある堀を水遁の術で渡るのは全く芸のない話しです。
ウェットスーツなどない昔は水に入ったらずぶ濡れになりますし、簡単に乾きもしません。
大体疲れます。いくら水に溺れない術でも頭のいい忍者がそんな効率の悪いことをしていたとは思えません。
私だったらまず、任務遂行のために上司か依頼主から小判を数百両ほど借ります。くのいちか現地で美女を雇います。
で、門番のローテーションと門番達の素性を調べます。
その上で一番図りやすい門番をお金と美女で籠絡して、大手門から堂々と入ります。
もちろん協力した門番には手厚く礼を尽し、必要であれば一族郎党ごと寝返らせて、それなりの地位に就けます。
別段特殊な術も要りません。必要なのはその数百両を借りられ、かつ手にして私利私欲に溺れないこと、配下の美女達と私情に溺れないことだけです。また、誠心誠意、諜報者や内通者達に接することでしょうか。これら全部、「溺れない」ための心得です。
私たちは日頃から色々なものに溺れかかっています。
愛欲、権力欲、金銭欲、色欲、人情、学歴、怠惰、麻薬、食欲、攻撃欲 などなど。
普通、人は欲を全て捨て去った姿で生まれてきますし、死んだ時も諸欲によって得たものは一切あの世に持って行けないものですが、どうしても生きている間は少しずつ我が身に取り付き身重になってきます。世の中のほとんどの人は死ぬまで身重程度で済ませられますが、不幸な人はそれらに溺れて我が身を滅ぼします。そしてそれらが原因で身を滅ぼした人たちはやはり有終の美ではなさそうです。
逆に身軽で人生を終えた人はたとえ市井の一市民でも美しいものです。
水遁の術は水に溺れないため、見ずに溺れないの響きあり。
人は大抵、水を初め、見えないものに溺れて身を滅ぼします。
そして色即是空空即是色、般若心経の句の通り、見えるものだと安心して見えないものに溺れます。見えないものだと気を張りすぎて今そこにある現実を見逃しもします。色即是空空即是色とは言ったものです。
身を軽くすることは忍者にとって必要なことですが、溺れないためにも身を軽くします。せめて欲まみれの世の中にあって浮くほどに身が軽ければ、つつがなく世の中を生きていけるものではないかと思う次第です。
溺れない方法はたくさんあるようで、実は一つだけのような気もします。
まあ、それは各で考えてみてください。
平成二十四年文月二日
不動庵 碧洲齋