不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

縁起のこと

毎月第3週日曜日は昼からの坐禅会に参加します。

昼食後、昼下がりの座禅会と言うことで、いつも眠くなること覚悟で行くのですが、今まで不思議と眠くなることがありません。

逆にかなり朝型の私が、早朝坐禅会で眠くなることは年に2.3回はあります。

昼の座禅会では般若心経の提唱がありますが、今回はなかなかおもしろく感じました。いつもはフェイスブックの禅グループメンバーにしか紹介しないのですが、今回はちょっとかみ砕いてご紹介したいと思います。

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是

(シャーリプトラよ、ものは空より生じる。そして空はものの形をとらずには存在できない。ものの世界には実体がなく、実体がないからこそ、ものとして現れることができる。)

般若心経で一番コアな部分といわれている下りです。

空、と言うと何もない状態だと考えられていますが、森羅万象一切のもの(色)は空より成り立っていると、仏教では考えられています。しかし空は空それだけでは成立せず、物体を伴って存在しています。また、逆にあらゆる物体も空であるからこそ森羅万象を成していて、あらゆるものと縁を持たせている、ということのようです。

私たちは完全に独立して存在することはできません。これは絶海の孤島に住んでいようと、宇宙の最果てで暮らそうと、私たちは必ず何らかの縁で生きています。

例えば、今、私の手元にはマウスがあります。プラスチック製ですが、ご存じのようにプラスチックは石油からできています。何億年もの昔、どこかに生えていた樹木がありました。その樹木はいつか起きた気象変動で森ごと地中に埋まり、石油になり、何億年後かに人によって掘り出されました。掘り出すにも他の樹木から変化した石油が燃料として使われたことでしょう。機材の鉄もやはり地殻変動でそうなったものを人が精製して使ったわけです。原油は人の手によって船に積まれて中国に運ばれ、精製され抽出され成形され、人の手で組立てられ、検査され、梱包後に今度は日本に送る為に通関を経てまた貨物船に乗せられ、港に揚げられ、やはり通関を経て物流倉庫で仕分けされ、店頭に並び、私によって買われました。ここまで人だけでも膨大な人数を経てきましたが、それ以外の自然やものの関係を考えたらそれこそ天文学的な数字になります。

そういう膨大な人や物事の関連性の上にたまたま浮かんでいる私のマウスです。道端の石ころ、家のゴミ一つにしても、たぶん想像を絶する関係と経過を経てそのものに現れているのだと思います。

人の方がわかりやすいでしょうか。私は1人ですが、10世代前の1024人の先祖がたった一人欠けても私はいません。今のような平和な日本ならいざ知らず、10世代前と言えばたぶん戦国時代頃。生き延びた人も多くの地獄を見たかも知れません。そういう人たちの上に今の私がいます。

そのように、何かの偶然でたまたま幾つかが相寄って仮にそのような状態にあることを仏教では「縁起」というそうです。縁の起り、まさになかなか言い得て妙な言葉だと感じます。

自分が 本を 読んでいる。

何でもない文ですが、実は「自分」「本」「読む」というそれぞれ独立した単語は実体もしくは実態がありません。

この「自分」は「本を読んでいる」状態の存在に過ぎません。

この「本」は「自分に読まれている」状態の存在に過ぎません。

この「読む」は「自分が本に対している」行為に発現されているだけです。

その時、その状態であるそのもの「自分」「本」「読む」しか存在していないという事実です。それらが独立した実体(実態)として存在していると思うは幻想だということです。

宝くじが当ったかも知れない自分、もうちょっと給料がよかったかも知れない自分、もうちょっとマシな妻がいたかも知れない自分、結婚しなかったかも知れない自分、全部妄想です。今この瞬間、キーボードを打っている自分(だと思っている存在)しかいません。

そういう意味で相対的に「違う自分」は存在しません。「違ったもの」もありません。縁起の言葉のように、何らか縁付けられたその状態が、その瞬間にしかありません。そういう意味において世界はあるもないもない、ありながらなく、ないながらある、という状態なのだと、言っていました。

同じようにそれを他人に当てはめる、自分の物差しで相手を見ることもあります。「私に対して寛容ではない相手」「私に対して優しくない相手」「私に対して悪意ばかり持つ相手」これまた居もしない相手を推し量っているだけです。

極悪人と思えるような某国の政治家がのうのうと生きているのに、フィリピンでは無垢な子供までが台風の犠牲になっています。人の価値観では何とも無慈悲だと思ってしまいますが、それも人の持っている物差し故、と言えます。(手放さないところが人故、とも言えます。その苦しみが人が人たる所以でもあると思います。)

禅ではそういう「物差し」特に自分に特化した物差しを手放すことが重要とされています。手放すことで直接、本来あるそのものに触れて知ることができる、と考えられています。

それは「悟り」と呼ばれていますが、それに至るまでの多くの気付きもまた、真理を知ろうとする人にとっては大きな真理の一端となっています。

その実体/実態を手づかみで知ろうとする為には「成り切る」ことが肝要です。

今しているそのことを丁寧にしっかりと、雑念なく完遂する。

今使っているそのものを、すり切れるまで、直せないくらいまで完全に使い切る。

上記を漏れなくする為に、多くのものを持たず、持っているものを感謝を込めて使い切る。

たぶんそんなことではなかろうかと思います。

これらは私も心掛けていますが、なかなか難しい。禅僧の皆さんは非常に厳しい僧堂生活でこれが自然と身に付くとのことです。

必要だから買う、欲しいから買う。先を慮って多く買う、今この瞬間の為に使い切る。こんな相対的な幻想が浮かび上がらないようになればしめたものですが、かなり難しいように思います。

それ故に、そう思えば日々していること、考えていること、そして生きていることも何となくうつろわせてはならず、しっかりと完遂して生き尽くしたいものです。たぶん、昔の人や今でも貧困や困難の中で生きている人たちはそうしているのだと思います。

帰宅後に息子にもこの縁起の話しをしましたが、息子はたった一つの何でもないものが何億年も経て形となって現れてから自分の手に至るまでの壮大なストーリーと関連性に非常に感銘を受けたようです。

「すごいね、まるで宇宙そのものだね!」

先日息子と観た「プラネテス」でも、「宇宙」というものは人と人の繋がりが大きくなってできているというような表現があり、これに息子は重ね合わせたようです。

昨日は非常によい話しが聴けました。

平成二十五年霜月十八日

不動庵 碧洲齋