不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

平成二十六年度 臘八坐禅会 初日 所感

臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)という行事が臨済宗にあります。

12月1日から8日の朝までを指しますが、その所以はお釈迦様が12月1日からブッダガヤの菩提樹の木の下で坐禅を始め、8日の早朝、明けの明星を観て悟ったことから、これを祈念して臨済宗の各僧堂でも同じように1日から8日朝まで1日の大半を坐禅をします。

禅宗の雲水さんにとってはこれが一番きついらしいです。

在家にはそういうものはありませんが、大きな禅寺で坐禅会を開催しているところなどはこの期間、臘八坐禅会などと称して連続して坐禅会が開かれたりします。

私が参加している禅寺でも毎年行われます。

私はここ4.5年はほとんど欠かさずに参加していますが、この坐禅会は自分の修行の進み具合を知るためにもとてもよいのです。

一番最初の時は毎日7日間坐ることがなかなか辛かったのを覚えていますが、翌年は取りあえず苦も無く坐れるようになり、更に翌年からは禅定を深められるようになってきました。

3年ぐらい前は最終日当りでやっと深くなってきたような感覚になってきましたが、翌年は中頃で同じ感覚、今年は初日から深く坐ることができました。

素人に毛が生えた程度の人間が坐禅で深く坐るには色々な条件が必要になります。例えばそこそこ結跏趺坐ができること、坐る前に食べ過ぎないこと、ほどよく体を動かしていること、あまり深い悩みを抱えてないこと(あった方がいい場合もありますが)などなど、切りがありませんが、うまい具合に合致すると怖いくらいに深く坐れます。

そして修行が進むと条件がどんどん減っても深く坐れるという案配です。

私などはまだまだ下っ端ですが、先輩方にはもう遥かに長く坐っている方もいますから、もっと境涯が深いのだと思います。

昨日が初日でしたが、通常19時から始まるところ、30分以上前に来て坐ります。早朝の場合でもそうですが、大抵は一番目か二番目の早さです。今回、最初の1時間は少し怖いと思うくらいに深く坐れた気がします。どう深いのかというとちょっと表現しにくいのですが、自分の中味が外に流出していくというのか、自分の実在感が消失しそうになるというのか、なかなか当てはまる言葉がありませんが、そんな感じかも知れません。自分という存在を一旦消失させて、そこから改めて自分という存在を見直す、と師匠が言っていたことがあります。そうかも知れません。

昨夜の坐禅会の帰りですが、夜空に煌めく星々がよく見えました。「自分」が「星」を見ているという相対意識が非常に低くなり、逆に地球や宇宙との一体感が感じやすくなります。これもうまく言葉にできません。般若心経に「色即是空空即是色」という有名な文句があります。「色」はカラーではなく実存のものを指し、「空」はカラッポではなく仏と言い換えてみると、実存しているものはすべて仏であり、仏はすべての実存のものである、と言い換えることができます。だから星をしている仏、私をしている仏、どちらも同じ仏ということが本当に実感できることが悟りなのだと思います。今はそう信じているだけですが、いつかそれが体感として分かってみたいところです。

坐ったぐらいで何が分かるのか、という向きもあります。ごもっとも。しかし身動き一つせず、頭の中の雑念を完全に無視する(もしくは流す)という状態を1日30分でも持つ人は世の中にどれほどいるでしょうか。体も頭も全く何もしないという、ある意味贅沢な時間を持っている人が少ないことを考えれば、決して無意味ではないと思います。(ちなみに坐禅はぼーっとしているのとも違います)

臘八坐禅会では毎年同じテキストが読まれます。

かの白隠禅師が書かれたという「臘八示衆」という本です。初日の一部にこう書かれています。

「気を丹田に満たして、一則の公案を拈提し妄想煩悩を払って、その公案になりきっていくのである。もし、このように歳月をかけて怠らなければ、必ずや見性できることは間違いのないことである。」

現代はスピードが命ということもあり、我々労働者は外側の者に対してあくせくさせられています。腹で深く呼吸することなど、普通の人はあまりないと思います。幸い私は武芸も禅も少しかじっているので日常的に腹式呼吸はしています。腹で息をすると、下腹の中心たる丹田に気が満ちてきます。これがカタカナでいえばライフパワー、漢字で書けば生命力のようなものと言うのでしょうか。

公案というのは有名なところでは「無を見てこい」とか、理屈ではどうにもならない禅の問題です。臨済宗の修行僧はこの手の類の問題と格闘しますが、在家で言えば自分で抱えている理不尽などうにもなりそうにない問題などを公案とみなしていいと思います。腹に溜め込んだ生命力を以てすればそういう理不尽な問題をも解決できると言うことです。経験からすれば確かに解決してきました。そしてそこに行き着くまで色々な気付きが出てくるはずです。

ちょっとその気になった方はぜひ、色々調べて近所の坐禅会に参加してみて下さい。

平成二十六年師走二日

不動庵 碧洲齋