不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

器の水を一滴も漏らさずして・・・

というのはよく禅宗で言われる、教えを受け継いでいく様です。

最近思うのですが、子育てもそんなものではないでしょうか。

まず、子供が生まれて驚いたことは、なにより・・・

自分の存在意義!

これが直感的に理解できるようになりました。

自分探しの旅などというものに出る人が多いようですが、結婚して子供をもうけてみなさい。

自分がどこから来て、今どこにいて、そしてどこに行くのか、造作もなく分かるようになります。

知ってしまえば何のことはありません。

自分が今まで得てきた全てのものを咀嚼し、再解釈して、それを次世代に注ぎ込む。

自分なんてものは元々無いんです。幻想です。勘違いです。

世界には70億人の人間がいるのに、よりによって自分自身だけが、自分の目で見ることができないのですから(笑)。

肉眼で見られないのに意地を張って存在を主張しているだけの存在に過ぎません。

だから他人は見られますが、あいにく他人は自分じゃありません。

故にそこには、太古から受け継がれてきたものを次に委ねる作業だけがあると言えます。

それが、そこだけが、本当の「自分」です。 あるとすれば、ですが。

(私が解釈した禅的な言葉に代えて言えば・笑)

私は息子に全身全霊を以て人間の根幹として重要だと思っていたこと、生き延びるのに必要なこと、男としてあるべきことなど、今まで自分で得てきて得心がいった、あらゆることを少しずつ教えていっています。

もし、万が一、「私」がいるとしたら、それは息子に委ねたものの中にいると思います。

そうすると、私のご先祖様は一滴の漏れもなく、私にいるというのもまた真理になります。

だから私は毎朝、仏壇の位牌を通じて、感謝の念を伝えるようにしています。

子育ては自分の卑小さ、人類の脈々たる営みの偉大さを知る、よい機会です。

繰り返しますが、自分の存在など、人類の脈々たる営みに比べたらクソみたいなものです。

自分が、個々が尊いのではなく、脈々とする営みを行うその行為が尊いのだと思います。

自分がいてその行為をするのではなく、その行為があるが故に自分がいるというように思うようになりました。

だから息子と遊ぶとき、話し合うとき、質問されたとき、叱るとき、私は「たかが子供」とは思わず、尊い故に全身全霊を以て応対するように心掛けます。

そもそも対人関係でいい加減でいいものなどはありませんが、自分や他人を問わず、子供に対する場合は真剣勝負でありたいものです。

子供を持つと自分の自由が奪われる、自分の時間が大事などと思っている人は、子供に接してみてください。

きっと、自分など仮にあっても、風の前の塵に等しいものだと思うことでしょう。

私たちは人類の営みの中に起こっているたった一つの現象に過ぎないのです。

SD111028 碧洲齋