不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

二人の孫子の兵法 (壱)

「兵法孫子」と言えば洋の東西を問わず知らぬ人はない、中国古典の中でも燦然と輝く偉大な書物です。

なにせイエスキリストより500年も前、お釈迦様と同じ頃に書かれたものなのに、今に至っても軍事はもちろんのこと、ビジネス書籍としても名を馳せ、軍人からビジネスマンまで、多くの人に読まれている名著です。

日本ではビジネスマンの人気書籍でほとんどベスト10に収まっているそうです。

なお「子」とは「先生」というような意味で、「兵法孫子」は「孫先生の兵法」というような意味になります。

で、この「兵法孫子」、著者について、つい40年ぐらい前までは二人の孫子に意見が割れていました。

一人は春秋時代、呉の国の武将、孫武で、もう一人はそれよりも約100年ほど後に生まれた孫武の孫と言われる、戦国時代の斉の国にいた、軍師である孫臏(そんぴん、「ぴん」は月偏に賓)ではないかということでした。

(ちなみに出身はどちらも斉です)

ところが1972年、山東省にあった後漢時代の墳墓(銀雀山漢墓)から、今、私たちが手にしている「兵法孫子」の竹簡と幻の兵法「孫臏兵法」の竹簡の二つが出てきました。

後漢と言えば、日本では卑弥呼の時代よりも少なくとも100年以上も昔です。何ともドラマチックな発見です。

この発見で二つの孫子について驚かれた点は、孫臏兵法の方が孫武の兵法よりも100年も後に書かれたはずなのに、現在我々が手にしている孫武の兵法の方が合理的に書かれていること。

孫臏の兵法には色々な呪術的な記載や占術的な記載があります。

これは孫臏の兵法がずっと地下に眠っている間、孫武の兵法は地上にあって多くの武将たちによって磨かれてきたためだと言えます。

また、内容も結構違ったものが書かれています。

孫武の頃は春秋時代と呼ばれ、まだ広い草原などで総当たり戦をしていましたが、孫臏の頃になると戦国時代と呼ばれるようになり、多くの国が淘汰されてきました。

そのためか、攻城戦についての記載が増えています。

それと、孫臏の方が比較的具体的な記載が多いように思います。

とはいえ、竹簡の欠損が激しく、読めないところが多いのが残念ですが、今後の研究に期待をしたいと思います。

画像

この写真はwikipediaにあったもの。中国の博物館に展示してあるそうです。

実物を見てみたい・・・。

日本では徳間書店から箱入りハードカバー本と、ちくま書店から文庫サイズで出ています。

レビューを見たところ、どちらも同じ程度の復元本のようです。

ちくま書店版の方は分からないのですが、徳間書店版は原文、書き下し文、訳文の3つとも掲載されており、現物にかなり近いフィーリングを出しています。

孫武の主君は呉王闔閭ですが、どうもこの王の政治はドロドロしていて好きではありません。

とても優秀なだけに残念です。

孫武もその辺りは察していたのか、後半生の記録が全くありません。

見限って国に帰ったのか、隠棲したのでしょう。

私は分かる気がします。

一方の孫臏ですが、こちらもまた、直接の上司である将軍田忌が宰相鄒忌との確執で斉を出奔します。

その後の記録にはなにも記載がありませんが、孫臏も一緒に斉を後にしたと思います。

哀しいかな、孫臏にせよ鄒忌にせよ、かなり優秀な人材です。

そして威王もまた、なかなかの切れ者です。

「戦国策」にもよく出てきますが、割と逸話の多い斉の国でも、威王は上等に位置します。

どうしてどうして皆一致団結できなかったのか、悔やまれるところではあります。

(特に将軍田忌と宰相鄒忌は下の名前が一緒じゃないですか、って昔はよくツッこんだりしたものです)

どちらの孫子も割に英明な君主の元を去りましたが、もしかすると戦争の悲惨さなどを悟ったのかも知れませんね。

特に孫臏の場合、暗い過去があります。

実は彼の両方の足、膝から下はあることによって斬られてしまいました。

また、彼の額には大きな入れ墨が入れられていますが、それもまた、同じ理由に依ります。

孫臏が若かりし頃、同期の龐涓と机を並べて兵法を学んでいました。

士官学校のようなものか?)

しかし一足先に魏の国に就職できた龐涓はある時、ふと同期の孫臏のことを思い出しました。

彼の先祖はかの有名な孫武、そしてその孫である孫臏もその名に恥じず、きわめて優秀。どう考えても自分が及ぶようには思えませんでした。

そこで龐涓は就職の斡旋をしてやると嘘をついて孫臏を魏の国に呼び寄せ、計略にかけて孫臏の両足を斬り、その上人前に出られないように顔に入れ墨を入れました。

似たような話が「韓非子」にもあります。

韓非子」の著者、韓非もまた、優秀である故に同期で一足先に他国(始皇帝のいた秦)に就職し、宰相にまでなっていた李斯の不安を買ってわざわざ呼び寄せられた上に殺害されました。

その点、韓非の同期である李斯は、孫臏の同期の龐涓よりも冷徹です。

龐涓は孫臏を殺さなかったばかりに後に逆襲されてしまいました。

こんな話を読んでいると、友情って何だろうと思ってしまいますが、今の中国でもこういうのが普通にまかり通っている現状に、震撼させられることしばしばです。

中国人って昔からこんな感じだったんですかね。

孫臏兵法を知っている方は結構、中国史マニアだと思います(笑)。

私は高校3年生の時にやっと見つけました。

ところどころ欠損があるところが良いですね。

判読不明なところが想像力をかき立てます。

確かに孫子に比べると、何となく旧態然としている風がありますが、それもまた何となく良いところです。

この次に孫臏兵法から幾つか抜粋して紹介したいと思います。

SD110831 碧洲齋