不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

評価の評価

私は小学校に入る前からプラモデル作りが大好きだったのですが、小学校6年生ぐらいまでは比較的に家で遊ぶことが多い方でした。・・・もっとも昨今の子供を見ていると、お話にならないほど外で遊んでいたなと、衝撃を受けますが・・・。

そういうわけであれこれケチを付けられたりしましたが、加えて4年生の途中から6年生まで強烈ないじめに遭っていました。毎日学校で集団で難癖を付けられ、囲まれて身に覚えのないことまで詮索されたり。いやいや大変でした。

6年生の頃です。世はいわゆる「ガンダムブーム」に涌きました。俗に言う「ガンプラ」の争奪戦に子供たちは夢中でした。これはすごかったです。今だったらさしずめ爽やかなサッカー少年までが行ったこともない模型店に並んでガンプラを買っていたのですから。

さて、そこで・・・。学校で中心的ではなかったにしても、一歩譲って中立でもなかったいじめに加わったクラスメートたちが、放課後、人目を忍んでよく私の家に遊びに来ました。ガンプラを持って(苦笑)。当然彼らはそもそも巧く作ることができませんし、造ることの喜び自体理解しません。彼らは12歳の少年からみても少々卑屈になって、学校での非を詫び、持ってきたプラモデルを作ってくれるよう、私に頼み込んできました。当時はやはりいじめを何とか回避したかった私は従順に受け入れて作ってあげたものでした。もちろん翌日になると学校でそのクラスメートはまた、いじめる側に加わるわけです。そんなことが1年近く繰り返されました。そういうことでこの頃から人のはかなさというか、愚かしさというか、そういうものを身に染みて感じていました。

中学校2年ぐらいからよく米海軍のフライトジャケットを着ていました。今でこそ別に珍しくありませんでしたが、1983、4年頃ではとても珍しいものでした(特に子供が着るには)。アメ横の軍装品店で買ってもらったものでしたが、丈夫なのと機能性の高さから買ってすぐに好きになったものです。・・・が世は日教組が教育界を支配していた世の中、子供たちもそういうものを見逃すはずもありません。元々戦争に関してもなかなか浅からぬ造詣があったこともあって、周囲から「戦争キチガイ」とか「右翼」とか、まあいろいろ言われました。先生にも!(苦笑)

1986年、高校1年生頃に大ブームになったのが「トップガン」。世の中の若者は一斉にフライトジャケットを買い求めました。いやいやこれもすごかった。もっとも私が着ていたタイプはあまり世に出回っていないモデルだったので、同型品をもっていた人はとても少なかったのですが、私に右翼、戦争キチガイ呼ばわりした人も嬉しそうに軍用フライトジャケットを着込んでいるのを街で見かけたときは「ヲイヲイ」と苦笑せずにはいられませんでした。クラスでも目を輝かせて「おお、碧洲齋!さすがお前だけあって、レアものを着ているな!見直したぞ!」と相手が興奮するのと裏腹に、私はため息をつきました。更に言うと同時に「ランボー2」も公開された時期だったので、ナイフなんて触ったこともない少年たちがあんな危険なシロモノを持ち始め、事件になったこともあったようです。私が初めてサバイバルナイフを手にしたのは中学校2年生の終わりだったと思いますが、あいにく気の小さかった私は護身用とかいじめる奴を殺してやろうとか、そんな大胆なことではなく(笑)、普通にサバイバルグッズの収集目的でした。今思うと覇気が足らぬ。

世の中の多くの人々(特に日本では顕著に)の評判なんて所詮そんな程度です。右から左、上から下、コロコロ変わります。自分は変わっていないのに、周囲が変わります。意地悪く言えばポリシーがないのか、プライドがないのか、はたまた主義主張、信念がないのか。もっとも世の中の多くの人がこれなら、多くの人は長いものに巻かれる人間こそ多数派なのか。いい悪いではなく、これこそが世の中の在り方だと諦観せざるを得ませんでした。もちろん私はそれでも長いものには巻かれない側ですが。お陰様で今日まで、かなり普通っぽくない人生を歩ませていただきました。まあもっと収入が欲しいとか、もっと美女との出会いが欲しかったとかありますが、それを言ったらきりがなく。

自分の評価は自分では付けられません。このような話をした後で言うのは怖いのですが、自分を評価するのは他人だけです。そういう意味で、社会生活にあると言うことは刃物の上に立たされるような気分ではないかと思います。

先ほども長らく付き合いのある知人から「お前が禅や武道をやっている人間とは思えん」との厳しい言葉を頂きました。一方で180度真逆の評価をしていただいている友人もいます。どっちが正しいという話しではなく、これがそのまま世の在り方ではなかろうかと思う次第。子供の頃に体験した他人の評価を思えば、どちらにも真剣に対面する必要もなく、サラリと流せばよいだけのこと。

「コイツは大馬鹿者だ」「コイツは大天才だ」真逆でも意外に両方の評価が一番正しそうな場合が結構あったりします。たぶん、そういうときは一つのものを違う角度で見ているんだなぁと悟ったときではないでしょうか。そんなときは誰でもおかしさがこみ上げてくるのかも知れません。

武道に関しては私はよく「門下の末席を僅かに汚しているだけです」という表現を使います。「たそがれ清兵衛」でも使われましたし、武道家には割とよく知られた表現ですが、とても好きな言い方です。芸事、道を歩むに当ってはこのような心がけが重要ではないかと常々思います。

禅に関しては印可を受けた人ですらいつもこれでよいのかと思っている始末。在家の末席をうろちょろしている自分如きが「禅をやってます」なんて大きな顔をして言えるほどになってみたいと思うだけで、禅友先輩方を上に仰いでいるだけです。

そういう人間に対して「お前など禅や武道をやっている人間には見えぬ」と言われたり「碧洲齋先生!素晴らしい!」と言われたり、何とも世の中は不思議だと思います。好評には感謝を持って慎まねばなりませんが、悪評には感謝したくなくとも内省して、思うところあればやはり無心で直し、流す。

遠くが見えない人、大きなものが見えない人がいる一方で、近くのものが見えない人、微少のものが見えない人もいます。こう置き換えるとどちらが正しいという判断が消えます。モノは一つで見ている人の立ち位置が皆違うだけ。それだけです。

平成二五年長月二七日

不動庵 碧洲齋