不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

父の命日

今日は父の13回目の命日です。

もう13年も経つのかと思います。21年前に他界した母の方とはよく会話をしたのですが、それ程思い出しません。それほど会話をしたわけではない父の方がよく思い出されます。急逝したからかも知れませんし、少ない会話だったから逆に印象深かったのかも知れません。母が他界して父と二人で生活したのは1年程度で、私は結婚してから家を出て、息子が生まれる少し前にまた戻ってきました。

丁度ドイツの出張から帰ってきて、一休みしていたら父が何となく胸が痛いと言うので医療相談に電話をして、それなら病院に連れてきてくださいというので車に乗せたところかなり痛がったため、急いで市立病院に連れて行き、救急窓口で車椅子に乗せられました。私は車を地下駐車場に移動させるために「じゃあまた後で」と父に言い、父も「ああ」とだけ返しました。その時はそれほど痛みはなさそうでした。結局それが最後の会話になりました。その後、車を移動してから処置室前に戻りましたが、無性に焦燥感が募り不動真言だったか何だったか、一心に祈っていた記憶があります。

1時間以上もしてからでしょうか、医師が出てきて「残念ですが」と言われてから記憶が若干ぼやけてます。取り敢えずサイパン島で日本語を教えていた妻に電話をして、その他思いつく限りに電話をしました。

翌月だったかに妻子がサイパン島から一時帰国する予定だったので余計に動揺しました。その時息子は3歳でした。

人が急に死ぬとこんな感じなのかと後になって思い返します。しばらくは葬儀や遺産の引き継ぎなどで大変忙しかったのですが、ふとそれが途切れるとどうも仕事も手に付かず辞めてしまいました。その他にも当時は色々問題が立ち塞がり、うつ病とまでにはならなかったもののそれに近い状態でした。

当時自分はメンタル的に結構強いと思ってましたが、家のこと仕事のこと武道のことなどなどで八方塞がりになるとあっけないもので、自殺未遂も2.3回あった気がします。その時勤めていた会社のビルの屋上に立ち尽くしたのですが、そう言うときは本当に怖くないものです。まあそれは日頃から武道をしていたのと無関係ではなかったかも知れませんが。ギリギリ引き留めたのは息子のお陰で、「まあ死ぬのはいつでもできるから最後に一度、子供の顔を見てからでもいいだろう」と思って留まりました。

10月だったか11月だったか、そういう風に思い止まってから夜に帰宅すると息子が玄関にいて私を待っていました。10時をとっくに過ぎている時間です。どうしたのかと尋ねると息子は泣きそうな声で「パパが死んじゃうと思ったから心配したんだよ」と言われたとたんハッとしました。俺は一体何をしているのか。このままではいかん。それで色々思い立ってそれまで何気にやっていた禅が閃き、ネットで調べて直感的に二つ選んだ寺が現在も通っている禅寺です。どちらの老師もある意味命の恩人でしょうか。ギリギリのところで救われました。人にもよるのでしょうが私は武道だけでは救われませんでした。今の私は武道と禅と両輪で生かされています。

この時から自分に何か欠けていたピースにやっと巡り逢った、そんな気がしました。

私の運気もこれを機に変わった気がします。まあ、翌年はリーマンショックで転職後すぐに減給されたりして大変でしたが。給料は安いし設備はボロいし、世間に供給している機械の割には驚くほどの企業環境ですが、それとて今現在の転換期を思えばあるべくしてあった会社だとも思います。世の中はうまくできているものだとほとほと感心し、神仏はもとより、私を支えてくれている友人たちにいつも感謝が尽きません。

令和弐年如月七日

父の命日に

不動庵 碧洲齋