不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

「無心」と「ゴミ拾い」

最近、意識して? 意識しないで? 行っていることがあります。

それはズバリ「ゴミ拾い」。

簡単だと言うなかれ、私がしているゴミ拾いはとても難しい。

主に家の中ですが、ゴミを拾うのです。

一つは常に床に気を配る。しかし他のこともしているため無意識に。

そしてもう一つ、こちらが重要なのですが、無心に行う。

簡単ですか?いえ、難しいはずです。

例えば自宅にアイスの棒が落ちていたとき、それを拾ってゴミ箱に捨てますが、私たちはこんな事は考えていないでしょうか。

・息子が食べたのか?

・食べた後ぐらいちゃんと片付けろよ!

・アリが来るじゃないか。

・全くだらしないな。

・今、朝で忙しい、帰ってきてからにするか。

・ああ、だめだめ。拾わなきゃ。

・面倒だなぁ。

・片付けられないなら食うなよ!

etc, etc.

普通は誰でも多分、こんなことを脳の片隅で、瞬時に、しかし確実に計算したり推し量ったり呟いているはずです。

これを完全になくしたままで拾う、というのが難しい。

ゴミを目にしたら、スッと拾う。

あうんの呼吸でこれをするわけです。

これがなかなか難しい。

無念無想でそれをして、そしてしかも自らを省みない。

坐禅で1.2時間平気で坐ることができても多分この行為の方が多分役立つと思った次第。

禅の師匠の師匠もこういう方だったと聞きますし、出版界という意味ではなく、現実に禅宗の世界で優れた老師と呼ばれる方は皆、こんな風だったようです。

いつも書いてますが、武道と禅を関連付けるのはかなり好きではありません。

が、この境地に立ったまま対峙した場合、恐ろしく強い立場にあると確信します。

多分、これがその昔禅を修行した侍たちの求めているところではなかろうかと思います。

比較的長いこと稽古をして、無心の動作を何度か見てきましたし、自分でもしました。確かにこれは強い。異常な早さではないのに目にも止まらない。

無心の動き、自然の動きというのは相手にとって注意を引きにくい動きです。

人の脳は異常を察知したときのみ、活発になります。ある程度慣れた武芸者なら、「素早い動き」はよく見えますし、対応の仕方もたくさんあります。そもそも自然に備わった四肢を異常な速度や動きで操作すれば、安定性や操作性に問題が出ます。そこにつけ込むのが普通の闘争です。これは自然の摂理です。だから無心の動き、普通の動きをしていると、相手は察知できないばかりか注意さえ払えなくなります。確かに自分の師や宗家の動きはそれです。宗家の動きを実際に見ると、見えていて覚えられない。そういうことが頻繁にあります。

それ故に無心の動き、想念を起動させない動きをする事が重要であると思っています。

日常の緊急事態にもこのセンスは役立ちます。緊急事態にいちいち考えて行動していては間に合いません。

ゴミ拾い如きの行為ですが、これが思うようにできるようになったら、私の武芸も多少レベルアップするのではないかと思った次第です。

平成二十五年長月二十五日

不動庵 碧洲齋