不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

タラントの喩え話

新約聖書、マタイによる福音書の中で、イエス・キリストはにこのような喩え話をしました。

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。

すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントもうけた。

二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントもうけた。

しかし、一タラント渡された者は、行って地を堀り、主人の金を隠しておいた。

だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。

すると五タラント渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して行った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントもうけました』。

主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

二タラントの者も進み出て言った『ご主人様、あなたはわたしに二タラントお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントもうけました』。

主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。

そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。

すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。

それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに、

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。

これが世に言う「タラントの喩え話」です。

この話、最近何かふとした弾みに思い出し、改めて思い返したのですが、なかなか奥の深い話しです。

昔はよくできた僕のチャレンジ精神を褒め称えるためかと思ったのですが、最近はそうではないようにも思えてきました。

信心深い主人が手渡したお金です。多分、僕が人のために使い切って、「ご主人様、困った人に全て差し上げました」と言ったところで叱りはしなかったと思います。主人が喜んだのは僕が困った人にお金を貸したり、働く意欲を持たせたり、お金の賃貸で他人と信用を築いたり、そういう人助け、他人を幸せにした上での人間関係の構築に関する修行の成果としての資産の倍増を喜んだのだと思います。かのイエス様ともあろうお方がわざわざお金を使ってまでした喩え話です。行間読み、深読みをしなければならないところでしょう。この際、倍になった資産なんかよりも、資産を倍にするまでの、端折られた苦労こそが尊く、栄えあるのだと思います。

そうすると、1タラントを増やしも減らしもしなかった僕に対して怒るのは当然です。彼は人助けはおろか、人間関係の構築、信用の獲得をしなかったのですから。その僕は主人の考えていたことが理解できなかったのか、お金を狭義の意味でしか捉えることができなかったのでしょう。

このお金を真面目さだとか教養だとか能力だとか技能だとか、色々なものに例えてみるともっと分かりやすくなります。お金を増やすには絶対的に他人との信用関係、人間関係、人脈、情報などと言った要素が必要になります。自分の能力や教養を増やすのも同じ事です。そして増やしたり伸ばしたりして何をせねばならないのか?やはり他人のためにしなければなりません。自分のため、自分のことだけ。これが1タラントを1タラントたらしめた僕ではないかと思うのです。よくよく考えてみたら私も1タラント僕だった時代は確かにありました。今では汗顔の至りです。

そう考えると、イエス様は人の一生は修行の一生、他人様に生かされている一生であるぞとおっしゃっているように思います。お金を使った喩え話であるところがミソではないかと思います(笑)。

最近、ある人を諫めるためにこの喩え話を使いました。

本人は至って真面目ながら、自己中心的というか、有言無実行というか、そんな体たらくの生活を送っていたのですが、私はこの「きまじめさ」をこの喩え話に出てくるお金に喩えて話してやりました。

「きまじめさ」を株守して何になるのか?「きまじめさ」は盾にこそなっても剣にはならない。「きまじめさ」は使ってはじめて、なんぼの資産に過ぎない、と言いました。

人間関係を恐れてそれを使わないのであれば、それは宝の持ち腐れ、つまり持っていても意味がないと断じました。

本人は理解してもらえたでしょうか。

お金だけではありませんが、娑婆の世にあっては万事が人間関係に関わってきます。無関係なものなど、それこそないのかも知れません。故に禅ではありませんが「俺が俺が」の無情さも噛みしめるところです。そういうのがあって許されるのはドラマや漫画だけの世界でしょう。

もうちょっと深く掘るなら、自他の関係を濃淡や有無で捉えるならば、地獄も極楽も全く以て阿鼻叫喚の修羅場と化してしまいそうです(笑)。ソイツが分かる分からないで天国地獄があるのではないかと想像します。

ともあれ、私もこのように信心深いままに資産倍増できたらそれこそ本当の「天国」でしょうか(笑)

平成二十四年弥生十九日 不動庵 碧洲齋