不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

クスノキと朝顔と

先日、息子が私に尋ねました。

「こないだ買ってもらった『マンガで分かる相対性理論』学校でも読みたいんだけど、まんがはダメなんだよなぁ。」

彼の名誉のために言っておきますが、開いて右側はマンガですが、左は小学校6年生でもどうかと思うレベルのことが書かれています。それでも理解しやすいのは右側のマンガの解説のおかげです。

「マンガは半分だけだし、普通のマンガじゃないから持っていってもいいんじゃない?」

「でもきまりでマンガが入っているものはダメなんだよ。」

「じゃあ仕方が無い、学校の規則には従わないと。」

「でもこの本は難しいから、ちょっとずつでも読めたらいいなって思ってさぁ。」

「それなら本当にダメかどうか、先生に確認してもらったら?」

「ん~」

(学校の先生はちょっと厳しい方なので・笑)

・・・という話しをとある知り合いにしたところ、

「学校でダメと言われているんだからダメに決まっているじゃん」

(私が読んでもかなり難解なマンガ付解説書です。しかもその判断は自分で決めてくれって言ったし・・・苦笑)

「学校ではみんなと遊んでコミュニケーションを図るところなんだから、一人で本を読むなんて言語道断」

(そうだけど、この難解な本を、細切れ時間にちょっとずつでも読んでいきたい、っていう意味だと思うけど・・・)

「だいたい、一人こもってそんなことをし続けて、大人になったらお前みたいに人とのコミュニケーションに齟齬を来たすようになったら可愛そうじゃん」

(は、はぁ・・・あなたは素晴らしいスキルがあるんですね・・・)

「そもそも自分の想いだけで子供を育てるのは止めた方がいいんじゃないの? 大人になって常識がない社会人になったら困るじゃん。」

(苦笑・これだけ具体性に欠けてかつ、歯切れが悪かった気がする)

例によって、まあまあひどく叩かれました。目の前に梁が置かれた人が、私の前のチリを取り除こうとする行為に似ていなくもないというのが私の実感です。

私は息子がどれだけ難解な本を読んでいるのかとても良く知っています。眠くても寝る前に何行かでも読み、分からなければ私に質問します。

その本を学校に持って行けとは言いません。自分で行動を起こして決定し結論づけさせます。何が重要かも自分で決めればよい。相当重要な事なら先生の心を突き動かすこともできると思います。私はその行動こそが重要だと思った次第です。

昨今の大人は出勤鞄の中に本を入れているのでしょうか?

私は車通勤ですから本は読めませんが、時折都内に行くのに電車の中を見渡すと、恋人同士でもスマホかポータブルゲームをしている有様です。彼らは子供時代、コミュニケーション能力に欠けていたとでもいうのでしょうか?

いつも書籍を持ち歩き、問題意識を持つことの重要さはなかなか替えがたいと思っているのですが、その知人にはそういうのは問題の内にも入らないと思ったようです。

コミュニケーション、禅をやる前は確かに角の立つ輩だったことは素直に認めます。付き合いの長い人には、よくもまあこんな奴と友誼を結び続けているなぁと呆れもし感心もしつつ、感謝しています。

その知り合いは朝顔の栽培はできるのでしょうが、クスノキは育てられないと思います。

そしてもっと大事なのは人は皆、それぞれ開花する時期が違うと言うことを知ること。

その為に待つことを知ることだと思います。

小学校でコミュニケーション、中学校で基礎学力、高校で応用学力、大学で専門、人はベルトコンベヤーに乗せられた製品じゃありません。人それぞれ開花する時期が違います。

個人的には孔子の十余五にして学に志すから始まるのはなかなかスタンダードだとは思いますが、初老で開花する人もいます。太公望はいい歳したジイサンでチャンスを得ました。殷の湯王に仕えた名宰相、伊尹も高齢でした。一方、源義経朝顔だったかも知れません。

ともあれ人は皆、違う時期に咲き、それまでにすべき事をして忍耐強く待つ、これだと思っています。いついつまでに人はこうでなくてはいけないなど、誰が決めるのか。その人の設計図はその人だけの仕様です。

私の場合は不惑に差し掛かってようやく見えてきたものがあります。しかしそれは私が見えたのであって、その知人には見えていません。だから朝顔の物差しでクスノキを計り、否と言うわけです。もちろんそれが愚かだとも思いません。いつかそれが分かるときが来るのではないかと思います(というか来て欲しいんですが・・・)。

40になるまでそんなことに気付かなかったのかよ、と自分ではもちろん思います。人同士の機微を知るには遅かったのかも知れません。でも過去には戻れないし、自分以外の人間になることもできません。反省こそしますが、昔のことを今の今まで執拗に誹謗されても私にはどうにもできないので、抛擲するだけです。相手にしている暇も無い。

前のこのクスノキ朝顔の喩え話を息子にしたことがありました。

息子はこともなげに「相対性理論では人それぞれ時間の流れるは違って感じるんだよ。」と言っていました。一番よく分かっているようです。息子が一番よく分かっていれば、そういう誹謗中傷も何のことはありません。いちいち反論するのも雅量に欠けます。(というか自分の長さ以上のことは計れないのですから、それは無理なようですが)私は息子、そして私を支えたり導いてくれる人だけが理解してさえくれれば十分に満足します。

平成二十五年師走九日

不動庵 碧洲齋