不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

彼女に石を投げなさい・・・

新約聖書 ヨハネ福音書8:3-11

律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

エスは身を起こして、その女に言われた。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

彼女は言った。

「だれもいません。」

そこで、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

さて、元モーニング娘。のメンバー、矢口真里さんの事です。

ネット上でしか知りませんからどこまで本当か分かりませんが、自宅の寝室でご主人が間男と鉢合わせなどと言うことは、およそ人生では最悪の状況だったことでしょう。普通に考えて、一般道徳観念に照らし合わせてこれは確かに許し難い行為です。

・・・許されなかったら、矢口さん、どうなってしまうのでしょう・・・

女性に甘いことでは定評のある碧洲齋ですが、許す許さないという照明のスイッチみたいな簡易さで人を裁いてよいものかどうか、と恐れを抱いています。どうも世はポータブルゲームの美少女育成RPGのような気安さで裁こうとしているような気がしないでもない。

いや、彼女がしでかしたことは決してよいことではありません。しかし私たちはコンピューターではなく生身の人間ですから、不倫や浮気は一生絶対に行わないと、断言して実行できる人はどれほどいるものか。矢口さんはまだ若いし(あ、でもアラサーか)やはりタレントだけあって可愛らしい。そういうのに惹かれてフラフラ~ッとしてしまう男もいるでしょうし、矢口さんがご主人よりも惚れてしまう男性だっているかも知れません。人間の感性はかなり勝手気まま、思い描いた予定通りには行かないものです。

我が身を戒めるのはもちろんですが、我々が完璧でない以上はその綻びを出してしまった人を許してあげられる余裕、寛容さを持ちたいものです。全く罪を犯さない人はもちろん裁く権利はありますが、聖書では要するにそんなバカなことはない、と言っているわけです。聖書ですら仕方なし、と言うのに人が「許さぬ」とは、何と了見の狭いことか。我が家で起きたら許すのかと言えば、それは分かりませんが、なるべく周囲が感心するような大岡裁きでありたいと思える心の余裕は持ちたいものです。

日本全国、津々浦々に素性の知られてしまった、タレント性以外にあまり才能がないかも知れない可愛らしい女性が世に放り出された場合、彼女にとっては地獄に放り出されたようなもの。面が割れてるだけにどこに行っても居場所がないかも知れません。それを愉しもうとする残忍な心は誰しも持っているかも知れませんが、同時にそれを哀れむ心だって人には間違いなく備わっています。近年では科学的に人の本性は性善説によって成り立っていると証明されつつあります。自分がささやかに幸せな場合、他人の不幸は甘いものです。しかしそれは確実に、あなたをメタボにして醜くしてしまいます。そう思えばゴーヤの苦みすら美味しく感じるというもの。人間の感性は所詮、その程度の修正は効くものだと認識しています。

そんなこともあって、今少し矢口さんには(彼女だけではありませんが)温かい目で見てあげられないものかと思います。世の中は厳しいことばかりです。IT技術が発展してからと言うもの、世の中のスピードが速くなり、寒くなり、ギスギスしてきています。故に人の過ちは全部とは言いませんが、なるべく許してあげたいと思っています。

私はモーニング娘。のファンではありませんが、矢口さんが早く復帰して全てを話し、また前に進むことを願っています。

と、碧洲齋の呟きでした。

画像

平成二十五年水無月二十日

不動庵 碧洲齋