不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

人は品格によって見定められるべき

新約聖書・コリント人への第一の手紙・第13章

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

昨日、息子とニュースを見ていたのですが、エエ歳した大人が乳幼児を虐待して逮捕されたという、情けなくも噴飯物の事件がありました。確か例によって無職だったとかなかったとか。

私は息子に言いました。

「人は職業や財産の多寡で社会的に差別されるべきではない。品格によって差別されるべきだ。」

息子は速攻で国語辞書を取り出してきて、私の言った「品格」を調べたのですが、そこには「その人やその物に感じられる気高さや上品さ、品位」とあり、私は内心「何を言っているのかさっぱり分からん」と思いました。もちろん息子も納得しません。

「自分が死ぬほど腹が減っているときに、たまたまパンが一つ手に入った。でもその隣に同じぐらい腹を空かせた人がいる。その人に今手に入れたパンをあげる。・・・これは品格ではなくて、義心、正義の心だ。更にその人に微笑みながら声をかける『私はお腹が空いていないからこれを食べてください』。これが品格だ。義心を持つことは難しいが、本当の品格を持つことはもっと難しい。でもこれができたら、たぶん人間としてはまずまず、恥ずかしくない人間だと思う。」

息子は大いに納得してくれましたが、実際こんな簡単な喩えでよかったのでしょうか。パッと思い付いた喩え話をしただけだったので、今朝になって思い返してしまいました。

私の勝手な考えですが、武芸で言うところの「残心」にも似ているような気がします。前掲した聖書の一節に書かれた愛についても、残心にしても「するだけ/しただけ」以上のプラスアルファの心掛け、備えが求められています。そのくらい尽すことが人同士の交流では求められる場合があると言うことです。今の世の中はIT技術によってスピードが求められてはいますが、ほんのちょっと速度を落として、そういうものにも心することも大切なような気がします。そういうことを昔の人たちは日常的にしていました。滝川クリステルさんはオリンピックの招致スピーチで「おもてなし」なんて言ってましたが、そんなことは100年前の日本人だったら語るにも値しないほどの当たり前すぎる事だったに違いありません。現代文明は自然環境破壊だけでなく、我々のそういった心の営みをも破壊殲滅しているように思います。

日本は品格のある国として多くの国から高く評価されています。それはやはり国民の多くに品格があるからのようにも思います。

義心は西洋人にもありますが、どうにも彼らは右か左か白か黒か、バッサリやらないと気が済みません。Whyの塊のような感じです。まあ、それはそれでいいのですが、日本人のようにグレーゾーンが大きくてなおかつ秩序だっているというのも、品格のような気がしてなりません。これはこれで世界平和にはかなり役立つとは思うのですが、如何でしょうか。

平成二十五年霜月二十日

不動庵 碧洲齋