不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

石を投げる

私は聖書は好きな方なのですが、その中でも好きな話しの一つが、ヨハネによる福音書に記載のあるイエスと姦通の女の話しです。

人々はおのおの自分の家に帰って行った。イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

エスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。イエスは身を起こして、女に言われた、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。彼女は言った、「主よ、誰もいません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう道を誤らないように」。

私はいつも、自分自身をこう定義しています。

「いつも、より正しくあろうと努力しよう。」

「いつも、より強くあろうと努力しよう。」

生きる上で、あるいは武芸など芸事をしている上で、この考えは重要だと考えます。

「俺は正しい」

「俺は強い」

信念としてはこれでよいかも知れませんが、その信念をそのまま実行に移すととんでもないことになります。「正しい」という前提は「正しくない」という対象があって初めて成立する概念です。同じく「強い」という概念も「弱い」という対象があって成立します。

そのような相対的なものの見方はシンプルで便利、分かりやすい概念ではありますが、それでは劇画やアニメみたいに単純な勧善懲悪の世界観になってしまいます。

そしてそこには「許し」や「慈しみ」がありません。

昨今、日本の社会にはどうも人間的な寛容性が欠如しているような気がします。社会全体がお寒い限りです。しかしそれは決して無原則な寛容性を持てという事ではありません。

例えばドロボーが我が国の重要文化財の仏像を盗んで高飛びし、彼の国でその仏像が手厚く保護された上、彼の国が我が国のものだと言い張るのには決然と非を唱えるべきです。また、人を殺したり傷つけたり、人倫の道を踏み外してなお、開き直るような輩を許すべきでもありません。しかし、過ちを犯してそれを本気で悔いている人に対して更なる正義の鉄槌を下すような冷酷さは持ちたくありません。その境界線は確かにありますが、多分それは紙面に記せる類ではないように思います。

許す許さないという境界線はあるものだとは思いますが、人は皆、その「許す」という名の境界線と「許さぬ」という境界線の間でもがき苦しむ定めだと思っています。多分苦しみが少ない人は自我を捨てられた人ではないかと思います。自分の尺度で他人を測り、自分の尺度と社会の尺度の整合に苦しみ、自他の尺度の違いに苦しみます。

例えば芸能人の酒井法子さん。(美女は大変ご贔屓に擁護しますが・笑)最近では普通のOLやサラリーマンは言うに及ばず、学生にまで麻薬は浸透しつつあります。社会が悪いのか、犯罪が巧妙になってきたのかは分かりません。本人は大変反省していると言っています。保釈後に介護関係に進むと言いつつ、結局また芸能界に復帰しました。厚顔と非難されています。彼女はもう10代20代の若さではありません(今でも十分に美しい方ですが)。子持ちで離婚歴があり、あろうことか犯罪歴もあります。そして他人様の前に身をさらす芸能界です。普通に考えたらそんなところで働こうなどとは思わないかも知れません。どんなことを考えて復帰したのでしょうか。彼女の所属事務所サンミュージックプロダクションが酒井さんが出演しなかったことで損失を被った賠償金5億円前後を肩代わりしたそうです。酒井さんにケチを付ける方々は大変裕福なのかも知れませんが、私には5億円というのは宝くじでも当てない限り、とても手にできる金額ではありません。酒井さんに含むところがある方は、タダでさえ賃金が低いとされている介護関係に従事して、子供を育てながら生涯返金しろと言いたいのでしょうか。もちろん返せるはずもないですから、言った人は間違いなくサディストです。人を何人も殺したり、傷つけたり、何十億円も横領して豪遊して、なおかつ開き直っていたらこれはもう許せる範囲ではありませんが、酒井さんの場合はそうではありません。また、関係ないとは言えないと思いますが、彼女が生まれ育った家庭環境もかなり不幸なものでした。そういうことを考慮すると、生き恥をさらしてでも芸能界で働いて、子を育てお金を返し、社会に貢献するのが一番よいと考えたのだと思います。個人的にはそれでも芸能界が好きだと思ってくれていたら、彼女は本当のアイドルです。これだけのことが起っても芸能界が好きだという熱意には感心します。

事件直後、精神的に追い詰められたり混乱したりしたため、色々な情報が交錯したかも知れませんが、そもそも自分が悪いと分かって捕まり、落ち着いていられる人はあまりいないと思います。最近よくテレビでやっている警察に同行して犯罪現場を放送する番組を見ていると、やはり容疑者はかなり動揺していることが多いようです。子を持った女性、しかも芸能人であれば尚更ではないでしょうか。

人は間違いをします。誤りもします。誤りのない人がいるとすれば、それはスクリーンやテレビ、本や漫画の世界だけです。

「いつも、より正しくあろうと努力しよう。」

「いつも、より強くあろうと努力しよう。」

だから私はいつもこのように考えています。これらを実践している人は身を慎み、言葉を慎み、理解を持ち、慈悲を持ち、寛容になれます(多分・・・)。少なくともそうしようと努力するようになると思っています。

これは我が国の民族名が「大和」であることを鑑みると、決して無意味ではないと考えます。

昨今、日本社会の狭量さ、人の冷淡さを憤慨せずにはいられないと思った次第です。

平成二十五年皐月十五日

不動庵 碧洲齋