今日はお釈迦様が悟りを開いた日だと言われています。成道会(じょうどうえ)と呼ばれます。
今を遡ること約2500年前、インドはブッダガヤにある菩提樹の下でお釈迦様は「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」と誓いを立て、12月1日から7日までずっと坐禅を続け、8日の明けの明星を見て悟られたそうです。
偉大な悟りを開いたとか言われてますが、生老病死の真理を悟ったのだと私は思っています。人としてこれ以上切実な問題はありませんから。もっともそれが全ての真理に通じていると思います。
禅宗の僧堂では1日から今朝早くまで、ほとんど寝ないで坐禅を組んで、いつもより多い入室(老師に公案の答えを述べに行く)があります。肉体的にも精神的にもギリギリだったことでしょう。
禅の手ほどきを初めて受けたのは11年前ですが、本格的に取り組み始めたのは6年ぐらい前から。まだまだ駆け出しの青二才です。幸いにして臨済宗の老師が主催する坐禅会二つに参加し、うち一つの坐禅会では色々な意味で非常に深い部分の指南を受けています。
坐禅会に来る方は様々ですが、師曰く、悩みの少ない人が来ても効果は薄いと。
私が参加者を見た限り、仕事や家庭、自分自身の問題を抱えていらっしゃる方も多くいます。
私もかつてそうでした。
大銀行に勤めていて、傍からみたら高給取りだと思っていたのに、大金を運用するプレッシャーのために精神的に折れそうになっている人、精神病の人、自分自身の性格に苦しむ人、家庭の不和に苦しむ人、本当に様々です。
年齢に関係なく、「ああ、前のオレにそっくりだな」と思うような方も見かけます。だから少々頂けない方でも、一生懸命に修行をすればある日何が悪かったのか気付くだろうと思います。自分が変わると、正確には視点が変わると世界も変わる、そう思ったものです。
禅は基本、何も解決してくれません。
解決の糸口とかヒントを与えるだけです。
「三合五勺の病気に八石五斗の気の病」という言葉があります。簡単に言えば1リットル程度の問題に5リットル分の気を揉むと言うことです。
一つの問題に5.6の悩みをぶつければ、主体者がおかしくなるか、客体物の整合が合わなくなります。
情報ソースの多い現代人が精神的な病を多く持っている所以はこの辺りにあるのではないかと思います。
禅を問題解決に用いる場合は、問題そのものをなるべくそのままに見るための方法論だと私は認識しています。
そんなことか、と言うなかれ。人の余計な思念は恐ろしいものです。妄想になり人を突き動かし、欲望のまま、感情のままに暴走して、時には自分や他人を破滅に陥れたりもします。
そういう思ってどうにかなることでもないことをカットできた時の爽やかさはなかなか捨てがたいものがあります。
聖書にも「あなたは多くのことに心を配って思い患っている。しかし、無くてはならぬものは多くはない。」という言葉がルカの福音書にあります。
そういう意味で楽観主義者は坐禅会に来ることは少ないかも知れませんね。私なんかはどちらかというと悲観主義者ですから(笑)。
基本修行は個人的アクティビティですが、修行僧が修行するところは「僧林」と呼ばれることから、団体で修行することの利があるのは確かです。坐禅会を通じて色々な世代、色々な業界の方と仲良くなるのもいいと思います。私などは一つの坐禅会ではほとんど親父の世代の人が多く、私などは子供扱いですが、もう一つの方では幸いやや古参と見なしてくれます(笑)。こういう違いは楽しいものです。
昨日、最終日の臘八坐禅会に向かう時、息子が尋ねました。
「生きる意味って何だろう。」
10歳がそんなことを悩まなくてもよい(苦笑)。
答えは分かりませんが、それの考え方は分かります。
「それはお前が腹が減った時、他の人が代わりに食べてもお前の腹は膨れないと言うこと、お前がトイレに行きたくなって、他の人がトイレに行っても意味が無いと言うこと。生きる意味は誰かの口からではなくて、自分の体を通じて分かっていくものだ。」
喩えがおもしろかったのか、笑いながら息子は理解してくれたようです。
今日、成道会は別の都内の寺でも坐禅会があります。
8日間連続で毎日約100分間の坐禅は久しぶり。しかし今年は何かエラく力がみなぎるものを感じます。
昨夜の坐禅でも今までは最終日はヘロヘロ気味であったことが多かったのですが、今年は4柱ぐらいなら1ヶ月ぐらい続いてもイケそうなそんな気分でした。
もしかしたらそれが私の場合の生きる意味なのかも知れません。
それぞれの方の生きる意味は言葉に表せる以上のものであればと願ってやみません。
平成二十五年師走八日 成道会
不動庵 碧洲齋