不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ヘレン・ケラー

今、中国諸子百家をまた読み直しているのですが、現在読み始めたのは性善説でお馴染みの孟子です。正直、私はナルシストが入った角の立つ説法は好きではないのですが、今回読んでいく内に、ふと性善説ヘレン・ケラーの生き方にかぶりました。

目も耳も聞こえないのに、なぜ人間として非常に優れた性を持っていたのでしょうか。もちろんこれは家庭教師を務めたアン・サリバン女史の努力によるところ大ですが、やはり目が見えなくても耳が聞こえなくても、言葉を話せなくても元から人間としての心が先天的に内在していたのかなと思います。彼女の場合、自分が知りたいと思うことすら得るのは楽ではありませんでした。

最近の研究だったと思いますが、赤ん坊の性(さが)を実験したものをテレビで見ました。ハイハイぐらいしかできない赤ん坊でも、大人が何かを落として困っているのを認識すると、落としたものをちゃんと拾ってくれ、一緒に喜んでくれます。正直この実験には大変驚かされたものです。

そうすると孟子の説く性善説もあながちウソでもないのかと思います。歳のせいか、昔は大嫌いだった孟子が、割に共感できる部分が増えてきました。日本では昔から「孔孟の教え」と言われているぐらいですから、やはり優れた思想なのだと思います。私自身、性悪説マキャベリズムを長年信奉してきましたが(笑)、ここらでちょっと進路転換した方がいいのかとも思ってしまいます。

現代ではインターネットや携帯電話を駆使すればおよそ見えないものや知らないことはなく、何一つ不自由しないと思うのですが、逆に見たいものだけ、見たいところだけしか見ず、聞きたいことだけ、聞きたいところだけしか聞かないという精神的視聴覚障害が多いような気がします。これでヘレン・ケラー並の人徳の持ち主であれば言うことがないのですが、どう考えても我々健常者の方が見劣りしてしまうのは彼女が極めて優れていたからなのか、我々のレベルが落ちたからなのか、考えてしまいます。

例えば昔あった森総理の神の国発言。全文を読めば別段何かいけないような発言ではありません。しかし一部野党と新聞社が自分たちに都合の良い所だけを抜き出し批判、結果内閣解散になってしまいました。この時はマスコミは怖いと震撼したものです。人間は自分の経験と知識、そして何よりも感性で拵えたモノサシで判断したがります。自分という個人のモノサシで、善悪、好嫌、正邪、多寡、美醜を定めます。これは全く油断なりません。ヒトラースターリン毛沢東金正日の評判ですら、世には180度対極の考えを持っている人が同時に存在しているのですから、人間の主観はかくも恐ろしいものです。(とりあえず、修行の成果が出たのか、人間の主観はとっても恐ろしいということはよく分かるようになりました)

禅をしていると分かってくるのですが、自我という幻想が作り出したそれらのモノサシがどれだけはかないものか、人を不幸にさせるのか痛感させられます。偉そうなことを言っていますが私もしばしば無意識に自分謹製のモノサシを振りかざそうとする行為を意識したとき、強く戒めます。まだまだ心に潜む自我というかエゴというか強い自意識を消し去るのは容易ではないと痛感することしばしば。そのうち大宇宙の真理、仏の真理というモノサシではかれるようになりたいと常日頃修行に励んでいます。老師によると人間死ねば皆仏になり、その時になれば誰でもそのモノサシを手にできるとのことです。つまり大体の人はあの世でその存在を知るようなのですが、できることなら私は棺桶に入るまでには何とかしたいですね。

SD101004 碧洲齋