不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ちと寒いな

冬の話しではありません。最近の世の中が寒いと感じます。

小保方さんの論文不正疑惑では、理研に即バッシング(そうじゃない人もいますけど)。犯罪者は即死刑、反日国家は皆殺し、汚職役人は重罪などなど。いや、大方その通りなんですが、ネットやテレビでサラッと知った程度の事柄、さして奥深いところまでは知らない事件に対して、この頃はどうも世論は狭量に過ぎる気がします。サディスティックと言って良いくらい残忍、冷酷な発言が目立ちます。

そういう人たちはそもそも自分自身にも同等に厳しいんでしょうか(苦笑)。とてもそうは思えません。

中国では国内社会の不平不満を反日デモに仮託して爆発させている人が多くいます。これは実際に私は幾人もの中国人と語り、確認しました。彼らのひどい生活は呆れつつも同情すべき事多々あり。

さて、日本でも反日国家や社会の不正、重大であっても自分に直接影響のない事件に怒りをぶつけることで、閉塞感のある日本社会の不平不満を解消している人はいませんか?中国ほどに多くはないでしょうけど、結構いるように思います。給料が低いとか、会社がブラック、仕事が多い、正社員になれない、カノジョがいない、夢や希望がないなどなど。まさかそういう不平不満を社会を糾弾するエネルギーにしてませんか?

その義侠心、愛国心、義憤、正道、それは100パーセント純粋ですか? 純粋じゃなかったら言ってはいけないとは申しません。ただ、心に僅かでも怯むものがあれば、その分、寛容さに代えられる心積もりはあって然りだと思います。

実は私は自分にあまり厳しくできません、そして多少はエラそうなことが言いたい、故に道を正しく、そして少しは他人に寛容であろうと努めています(ちょっと開き直った論法ですが)。残忍さや冷酷さは時として気持ちがいいものです。相手よりも優位に立った(もしくはそう錯覚している)気分は最高です。20代前半ぐらいまではそういう気分を味わっていた気がしますが、社会人になればそういう100円ショップにすら売っていそうな安っぽい感情は何処へやら、自らが持つ力を恐れ、慎まねばと恐々とします。例えばそれができない自称武道屋は、事件を起こしてしまうわけです。そういう感情は愚かな錯覚に過ぎません。

無原則に寛容であれとは言いませんし、そんなことしたら大変です。

幾つかのよからぬ国の方々の好き放題にさせては本当に面倒なことになることはもちろんです。

それはもちろんなのですが、できるだけ基本性善説で行きたいところです。

キリストの愛でなくても良いですし、お釈迦様の慈悲とは言いませんが、水に落ちた犬を撃つようなマネはどうかと思います。

世間があまりにも冷たくなることによる、住みにくさ、他国からの評価などを鑑みれば自ずと我々日本人が採るべき道も見えてくると言うもの。

日本人として本来評価されている部分を損ねないように、それでいて主権を脅かすような脅威には毅然として対応したいところです。私は無原則に慈悲や友愛を掲げません。やるときはやります。ネット上で正義の炎を盛大に燃やして気炎を上げているような御仁よりは幾らか、毎日毎時、いざというときの覚悟をして毎日を生きています。そういう生き方をもう人生の2/3ぐらいしています。

いつの時代のどれが良いとは申しません。

人それぞれに理想像があることでしょう。

それでも例えば歴史上の人物が歴史の端に名が上がったのはその人が優れているから。その人の短所で名が上がったわけではありません。

我々庶民はどうにも歴史上の人物にあれこれケチを付けがちですが、本来は彼らの長所から学ぶべきです。

そういう理想像が歴史上に見つからなかったらせめて人から恨まれない、惜しまれるように生きるべきかと思います。

まあ、なかなかどうして、国際社会に生きるとは自分たちが思っているようには行かないものですが、究極的にはその国の文化や英知、人間力による解決が一番平和的で納得がいくものです。一戦交えて、などとはあまりお考えにならないように。(それでいて備えを十二分にする、という日本文化が好きです・微笑)

写真は記事とは全く関係がない、ネバダ州のフーバーダムにて先日撮影したもの。デッカイダムです。夢も志もビッグでいこうぜ(笑)

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平成二十六年弥生十四日

不動庵 碧洲齋