不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

「性善説」と「性悪説」

中国思想の帝王たる儒家に初めて手を出したのは高校3年生から留学直前、法家道家と真逆の思想で、道家に散々叩かれているからという理由だったのと、呉子韓非子を生み出した荀子の祖である儒家がどんなものかもっと良く知りたかったからでした。別段孔子の徳に吹かれた訳ではありません。もちろん最初に読んだのは「荀子」(笑)、江戸時代、性悪説の主流たる韓非子荀子は悪徳の書とされ、禁書扱いではありませんでしたが堂々読むのはあまり名誉なことではありませんでした。「孔孟の教え」と言われるように、儒教の始祖、孔子の言葉が綴られた「論語」と性善説が説かれた「孟子」こそが読むべき書籍とされていました。

私はあまのじゃくでしたから、徳間書店の中国思想シリーズで一番最後に購入したのが「孟子」(笑)。写真を見ても分かるように「孟子」だけが少し新しい。「孟子」「易経」以外は30年前に買ったものですが、「孟子」は結婚する前後に買ったと思います。それでやっと徳間書店の中国思想シリーズが全巻揃いました。

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性善説」と「性悪説」についてです。

若い頃はたまらなく「性悪説」に憧れましたし真面目に信奉していたものです。どちらかというと道家的に書かれた孫子よりも法家的に書かれた呉子の方がおもしろかった。著者の呉起の生き方もカッコよかった。韓非と呉起は最後は無残な殺され方をしましたが、そういう厳しい生き方にあこがれました。厳しいことを言った人ほどロクな人生を送っていません。だからそういうものを書いたのかも知れませんが。

若い頃に読んだ論語は大変つまらない書籍でした。軽蔑してましたし失笑すること多々あり。孟子に到っては屁理屈をこねくり回す無用の徒とさえ思ったものです。

それに較べたら兵家や法家、一歩下がって実用主義墨家の方がはるかにマシでした。儒家は全然「使えない」。

しかし30を過ぎて結婚して子供ができて、禅を始めたり道場を開いたり社会になじんでくると、腹立たしいことに論語孟子の良いところが徐々に見えてくる。昔はバカにしていたことがそうできなくなってきました。ま、社会を知らなかっただけかも知れませんが。30代前半は哲学というものの深遠さが思い知らされたものです。

性悪説というのは何の根拠がなくても容易に信じられる哲学です。簡単で分かりやすい。

多少の良心の痛みを我慢すれば政治家として大変シンプルな考え方です。

毒を吐くのが人の性であれば、韓非子荀子は心地よいはず。

一方の性善説を信じるには勇気が要ります。実体験や確固たる信念がないと容易に信じることはできません。誰だって瞞されたくありませんし、騙されて嫌な思いはしたくありません。

そもそもが中国や韓国と言った自称儒教大国、欧米のみならず世界のほぼ全ての国の社会概念は概ね「性悪説」で動いているように思います。

日本の社会がズレまくっているのは日本の社会が「性善説」で動いているから。良いとか悪いとか言う視点ではなく、このような見方をするともっと本質的に見えるのではないかと思います。

そしてそれを実践している日本人はある意味すごい。これは教育の成せる技ではないかと思ったりします。教育と言っても何世代、何百年というスパンです。生活や習慣、行動に染みついた「性善説」です。海外に住んでみると分かりますが、日本社会の「性善説」にはやはり舌を巻きます。外国の方もまず大体驚きます。

性善説を信じるには胆力が要ります。寛容さも。

私などは性悪説を信仰していたときから(笑)いい人だと思って信じていたものの、実は2流3流の人で大変失望させられたという事は何度かあります。自分の人徳が到らなかったことも多々ありますが。不思議とそういうときは相手ではなく自分の眼力のなさに腹が立ちます。

最近も性善説に基づいて敬意を持っていた組織が、自分が思っていた程ではなかったと露呈したときも、自分の観察眼のなさに腹立たしくなりこそしましたが、別段相手が善から悪に変わったわけではなく。そもそも人や組織が単純に善悪で割り切れるはずもなく。犬はワンワン、猫はニャーニャー、烏はカーカー、雀はチュンチュン。元々あるそれだけの事態に無理に色を付けようとする行為こそが間違いなく悪い。私はそれらをひっくるめて性善説を貫きたいと考えを革めたものです。(でも目の前に孟子が現れたら間違いなく蹴りを入れると思いますが!)

平成二十九年皐月三十一日

不動庵 碧洲齋