不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

暴力のこと

東京都江戸川区の小学1年、岡本海渡君が両親から暴行を受け死亡した事件について。 基本的に・・・「人間は相当残忍で冷酷」な一面を持っています。間違いありません。私の周りにも、人を苦しめることに喜びを感じている人や、人が苦しんでいるのを喜ぶ人が幾人かいます。人によっては正直に「人の(心の)傷に塩を塗り込めるのが好き」と言って憚らない人もいたりします。度が過ぎると、苦難に平気な顔をしている被害者がいるとイラッとされたりもします。困ったことにそういう人ほど普通の小市民然としていたりします。多分それは道徳的にいけないとかいうよりも、猫が小動物をなぶり殺しにしているようなものなのではないかと思うようになってきました。猫に道徳心を求めるのは間違いです。言うまでもありませんが。 言葉や力の暴力を存分に振るうことは後先のことを考えなければかなり気持ちがいいと感じる人が多いと思います。私が修行している武芸とて、立派な暴力です。武芸は教育や人間育成のためではありません。確実に、効果的に敵の命を奪う技術の取得他なりません。肯定的に捉えられているのはそれらは全て平時における応用がうまくいっているからです。それはそれで武芸者としてはとてもとてもありがたいことです。武芸とはコントロールされた暴力です、と師が言っていました。そうだと思います。 この事件は全くやりきれません。母親が自分が腹を痛めて産んだ子供より、夫の愛が重要だというのでしょうか。ヒトの本能として、種族維持本能よりも個体の欲望の方が上回ったというのでしょうか。分かりません。正直にこういう人たちを全く理解できないのです。私は子供が好きなので、全くの赤の他人の子供でも、危機が迫ったら我が身の危険を顧みず助けると思います。そして後悔もしないと思います。小さな子供に腹立たしく思うことはもちろんありますが、成長過程にある生命に対して寛容になれないことの方が恐ろしく感じます。 この母親は15歳でこの子を産んだようです。多分生きるのに必死だったのだと思います。こういうご時世ですから中卒の女性が必死に生きる様に理解を示したいと思います。そして憩いをもたらしてくれる大樹のような男性がいたら思わず駆け寄りたくなる気持ちも分からないでもありません。残念なのは自分よりも子供の方が大事と思わなかったことです。相手の男性も自分になついてもらおうときっと努力していたのだと思います。ある程度分別が付いた年頃の子供をなつかせるのは決して容易でなかったと思います。もちろん、この男性が十分な寛容さと忍耐力を持ち合わせた大人だったわけはありませんが、弱者に暴力を振るって服従させるという、野獣の快楽を味わってしまって後に引けなくなってしまったのだと思いたいです。 どの程度、人間が寛容さと忍耐を持ち合わせなければならないのかよく分かりません。だいたい鬱になってしまう人が増えているので、社会全体が人間の許容範囲を超える負荷をもたらしているのかも知れません。(社会のせいにはしたくはありませんが)それでも種族を残そうとする生物本来の本能と人間が培ってきた道徳心がコラボすれば、それなりにつつましい家族を営めたのではないでしょうか。 なくなった海渡君が本当に憐れでなりません。そして育ててくれていた彼の祖母もいたたまれません。せめて両親が刑務所で己の罪の重さを思い知り、心底更正してくれることを祈るばかりです。 力の暴力も言葉の暴力も使わねばならないときは確かにありますが、万に一つやむを得ぬ場合は何重にも安全装置を外す思いで思い直して欲しいものです。私が使わねばならない暴力もその様でありたいと思います。 ・・・今この場にその両親が2人いたら、もちろん、「きさまに今日、生きる資格はないっ!」「てめえらの血は何色だぁ~っ」と叫んだ後、「北斗百烈拳!!!」続けて「北斗残悔拳!!!」を食らわせてやることは間違いないでしょう。私は寛容ではありません。単に2人が近くにいないから、やむなくペンにやりきれない思いを託しているだけなのです。・・・ ふぅ・・・ SD100203 碧洲齋