今朝、mixiのニュースネタにあったのでちょっと。
子供の学力について良く取りざたされています。
やれ収入の多い家庭は学力が高いだとか、
この塾はよい、
この学校は有望校、
この食べ物は頭が良くなる、
この運動は身体によい、
こんな言葉は子供をやる気にさせる、
などなど。
そういうのに振り回されている親が多いと思います。
何かに書かれていた言葉ですが、この方法があの子供に良くても、自分の子供によいかどうか分からない。洗濯機のマニュアルでテレビを使おうというようなもの。マニュアルは子供毎に違うものだ、というものです。
子育て、教育の難しいところは仕様書がない製品を育成するようなものだからです。
暗中模索の連続です。
今の時代、一番不幸なのは、暗中にて確実に手を引いてくれる先達がものすごく減ったこと。
パソコンやお気軽なネットワークで答えを求めてしまうこと。
(もちろんそれが限りなく便利で有利であることは多くあるにしても)
うちではまず幼少の頃に「火」と「刃物」の使い方を学ばせました。
理由は簡単、人類が何万年も前から今に至るまで使っている、最も初歩的な道具だからです。手も切ったようですし、火傷したこともありましたが、そういう超基本的なことができない人類は多分滅びます。そういう信念でやりました。
暴力。道場に連れて行って、武道の稽古を見せたり、やらせたり。殴られたり投げられたりしたらそこそこ痛いものです。そこから暴力というものが何なのか、よくよく分からせました。暴力的なゲーム(暴力的でなくとも!)からは痛みが分かりません。バーチャルな体験というのは一部の目的のために特化して便利な分、欠落している情報が膨大なのです。その辺り、よくよくわきまえさせています。ちなみに我が家では私も妻もゲームをしません。パソコンでもゲームや実務的でないアプリの類は使いません。息子が時々、アメーバピグをする程度です。しかし息子は庭で実際に野菜も育成しますし、夏には釣りもしますから、アメーバピグの活動の一部は息子にとっては単なる追体験です。
友人関係の構築は難しいですし、指南するのも難しいと思います。
言葉が良くないかも知れませんが「運を天に任せる」部分が大きいように思います。
子供にある程度仕込んだら、社会で揉まれるべきものだと思っています。
幼稚園とか小学校に入って学が付いて来ると、反論もされます。
ここが親としての力量が問われるところでしょうか。
勉強についてです。
私は基本的に親が実践せねばならないと考えています。
私の場合、武芸、禅、ロシア語について勉強はしています。
武芸と禅は実際に身体を張ってやらねばなりませんが、学校の勉強に近いとするとロシア語でしょうか。
この歳で足りぬ頭を使うのは何とも大変ですが、逆に若い頃と比べてすがすがしく感じます。未知のものに興味を持つ、現実に存在しているロシアの友人らとロシア語で話せたら楽しいだろうと想像する、もちろん仕事でも使えそうだ、などなど、そんなことを考えながら取り組んでいます。
妻も茶道など、なにがしかの芸事に励んでいます。熱意という意味では私以上かも知れません。
そういう親も何か勉強をしている姿勢あっての、子供の勉強ではないでしょうか。
うちではあまり勉強をしろ、などとは言いません。
大抵自発的にしますし、ちょっとした日常の計算も、本人の気が済むまでやらせます。
宗教的・道徳的な問題はがっぷり四つになって、お互い納得するまで考えます。
文学的な問題は夫婦で得意な方が相手します。
歴史は私ですが、やはり最近は中国や朝鮮に対するスタンスに注意しています。
ひどい政府ではありますが、国民は必ずしもそうではないこと。
ネット上でいがみ合っていても、実際はそうではない人が多いこと。実際に私は会社の中国人研修生と引き合わせて交流を図りました。想像上の中国人だけが肥大化することは、脳にがん細胞を移植するようなものです。単純な色分け区分けをする人間はえてして全体主義という安易な道を選んで、自らの観察行為というか、そういうものを放棄しています。
何世紀後かは「地球連邦市民」として誇りを持つのかも知れませんが、取りあえず今は日本国民として誇れるような教育は重要です。言葉や知識でない別の部分を。言葉や知識はそれをサポートするだけのものです。うまく言えませんが。
勉強の実際について、親がやらないのに子供にさせるというのはできなくないにしても、とても難しい。
それなら親も何かにチャレンジして、その姿を息子に見せた上で何か言えば効果絶大だと思ったりします。
何のため?それも人それぞれです。ただしおもしろいと思わせておくことは重要に思います。対価として現物ではない、知的興味とその満足感という、ある意味人間ならではのやり取りが重要かと思います。そこに親が何かを買ってやったりすることはよろしくないかと思います。
それと重要な事。答えのある問題、調べれば分かる問題だけを与えることは、子供が成長して、社会に従事したときに困ると思います。理不尽で非論理的な設問や問題を時々提示することも、重要ではないかと思います。
市井の一父親が思ったことです。
平成二十五年正月二十九日
不動庵 碧洲齋