不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

最近の宗教に思う

画像

昨今、何かと宗教が取り沙汰されています。世界的に見て日本人の宗教観はかなり独特な気がします。うまく言えませんが、生活の中に溶け込んでいるだけではなく、文明科学にまで浸透、融合させています。これは他の国ではあまり見ません。日本人は自身で想像している以上に信心深いのにとりわけ「宗教」などと口にすると身構える習性があるのが時折おかしく感じます。よその国では宗教は光だったり食べ物、宝石であったりしますが、日本の宗教は空気や水のようなものではないでしょうか。

この世は「必要ないもの」は決して存在できません。「必要ないもの」必ず淘汰されます。そして「必要なもの」ですら時には淘汰され、時間の彼方に葬られてしまうほどです。その中にあって何千年も存在してきたあらゆる事物は、たとえ「あなた」が必要ないと思っていても、そうでないと思っている人が多いから存在が許されているようなものだと理解しています。この世に存在しているもの全ては大多数が必要性があるから存在している。「あなた」が論理的に思うが思うまいが、天地宇宙万物の真理は「あなたひとり」の都合では動いていません。そこを不条理と思うのは「自我」があるから。他の動物は多分何かあってもそれを「不条理」とは受け取らないと思います。これを基督教では「罪」と言ったり仏教では「業」と言ったりするのかも知れません。要するに天地宇宙万物の真理と自我の思い込みのギャップ、人故の苦しみです。

今話題になっている「幸福の科学」。私自身は大変胡散臭いと思っていますが、そうでないと思っている人が大変多いからあれだけ大きな組織になっています。人は概して個人のものさしが天地宇宙万物の真理だと勘違いしてしまいがちです。(これは私も同じ事ですが)「幸福の科学」にも「創価学会」にも「立正校正会」にも確かに一部見るべき真理を見いだせるように思います。その全体像で見たときにどう感じるか、どのような方向性なのかという事で揉めているのだと思います。個人的に「創価学会」や「立正校正会」、宗教ではありませんが「日本共産党」の友人は数人ずついますが、個々ではいわゆる「普通の日本人」よりはずっと積極的、行動的、情熱的、個性的であっても、例えば保守派が言うような意味での悪人はいません。まあ詰めたら理論に綻びを生じたり、情熱があらぬ方向に行って周囲に迷惑を掛けたりすることはなきにしもあらずですが、それ以上に「普通の模範的な日本人」よりも社会貢献というのかヒューマンパワーが大きいように私は感じます。くどいようですがあくまで個人対個人の話しです。「幸福の科学」信者に友人がいないので、その辺り彼らの思うところはどんなものか興味はあります。

もっとも「幸福の科学」は創立されてからわずか30年程度、戦前に創立された「創価学会」「立正校正会」の半分にも及びません。「幸福の科学」はまだ熟成していないと言えます。「幸福の科学」がもう1世代古くなってまだ存在していたら、多少なり何か変わるのではないかと思います。

個人的に持ってもいいと思うものさしは、周囲の人に迷惑を掛けているかどうか、周囲の人と建設的な調和が取れているかどうかで考えています。それさえ正しければ、大局的に所属する組織、国家も正しい方向性を保っているわけですから、それほど深く考えなくてもよいのではないかと思っています。

そもそも民主主義は多種多様の価値観念の相互理解と共存が前提です。一文化、一国家、一民族で何千年も存続してきたかなり特殊な環境であった日本では、ある意味相容れない思想ではないかとすら思うことしばしばです。日本人だけに囲まれて生活していると、例えば移民国家の社会に比べると一種異様に感じることがあります。異物を認めないような空気はあります。いわゆるウチとソトというものでしょうか。もてなしというのも「ソチ」であるからこそ美しく見えます。「ウチ」側はある意味、結構ドロドロな気がしないでもありません。そういう意味では欧米の方がドライで気楽に思うことはよくあります。そういう意味で現代日本人は欧米人に親和性があるのでしょう。

私が10年前から修行している禅とは、この「個人のものさし」を外してものを見る訓練とも言えます。そういうことで私が惹かれた理由でもあります。そもそも禅は宗教とは見なされてはないため、エルサレムでもローマでもNASAでも実践されていますが、そう考えるとすぐれた修行方法だと思っています。仏教の一修行方法が宗派を超えて受け入れられる辺りに私は惹かれました。現在では武芸を精進するに当って、禅の感覚、禅の哲学は武芸を理解するに当って、かなり大きな力になっています。

・・・とはいえ武道をしているから禅も、というのはあまりお勧めしません。嗜み程度の禅はもしかしたら時間の無駄かも知れません。私は恥ずかしながら藁にも縋る思いで始めました。それまで20年もやってきた武道はその時、精神的に追い詰められた状態を打破するのに役に立っていないという、思い切りの良さも身を救ったのかも知れません(笑) 結果、禅を始めたため、武道もまたそれまで以上に活かされるようになりました。武と禅に共通するものが見えたのはあくまで私だけの結果論です。剣禅一致というのはあくまで幾つかある結果論であって、万人には真実ではないと思います。

私自身、自分から禅を勧めたことはほとんどありませんし、相手(大抵は外国人同門ですが)が禅を求めてきても私の独断と偏見で紹介したりしなかったり。ある外国人同門などは「ただ坐ることだけに何の意義も見いだせない」と言っていた人もいましたが、多分それが本当なのだと思います。汗水流して稽古をする時間以上にただ坐るその時間に対して、妄想でも希望的観測でも願望でもなく、正真に意義を見いだせる人だけが坐ればいいと私は考えます。

ふと思い付くままに

平成二十九年如月十七日

不動庵 碧洲齋