平成二十七年葉月三十一日の稽古所感として
これは私の師の教えでもありますが、興味を湧かせるように教えること。
淡々と基本に忠実に教えることはもちろんですが、厳しいだけ、道筋から目を離さない単調な教えは良くないと言う事です。
武芸の道は厳しく遠い、もちろんそうです。そしてそれを理解して入門したのだからそういうことは了承済だ、もちろんそうです。
ですがそれだけで人が付いてくるほど現代は人材に恵まれていません。
武芸に関して言えばすでに本来の目的である武力行使という任務を離れて1世紀以上も過ぎています。戦争があっても武芸の技そのものは近代戦争にほとんど寄与しません。戦闘に於いて武道の技術を使うことがなくなったからです。現代に生きている武芸がより大きく貢献できることはその精神や哲学です。
逆に考えれば、こんな豊かで平和が続いている時代でもしぶとく生き延びている日本武道は、奥が深いとも言えるかもしれません。当流で言えば戦争や紛争の絶えない国からも大勢やって来る現実を見る度に私はそう信じています。
昔、槍術を初めて習ったとき、宗家が「今時本当に穂先で人を突くことがあると思っているのか?心を突くんだ!」と一喝したときはっとしました。その技術に固執するあまり、その意義やそれを通した見方、古人のものの考え方を忘れてはいないかと。
そういう意味で現代に生きる武芸はサラダで言えばドレッシング、ステーキで言えばステーキソースのようなものではないかと思ったりもします。
従って現代に於いて教える場合、江戸時代からずっと続いている教え方ではまずいということ。現代人のメンタリティーも当然、100年前とは違いますから。
面白おかしく、では困ってしまいますが、知的好奇心をかき立てる、できたら飽きの来ない教え方がよいと考えています。飽きが来ないというと勘違いしそうですが、逆説的に忍耐強い、集中力を欠かさないように教えるという言い方の方がいいかもしれません。
もちろんひとりひとりの性格に応じてレシピは変えるべきですが。
そういう現代人に即した教え方を以て、初心者には何より基本を体に染み込ませるようにします。基本というのは技の基本ではなくて技以前のところです。呼吸法や足捌き、目附、礼法、そしてものの考え方です。私の推測ですが、多分江戸時代や明治時代、人によっては戦前ぐらいまではこの意味での基本は生活の中で十分に培われていて、わざわざ道場で教えるまでもなかったことだと思いますが、現代では殊更取り上げなければならないほどに我々の身体能力や思考形態が変化してしまったのだと思います。
この世の技術は必要のないものはどんどん淘汰されます。武道の流派も江戸時代は500とも700とも言われていましたが、今、ちゃんと継承されている流派はとても少ない。それでも継承されていると言うことは、やはり世に必要があってのこと。今は生活で使われなくなったことでも、昔の人の生活の知恵から得ることは大変意義深い。そのような基本があっての技だと、私は考えています。
基本を練る、と言います。パン生地でもよく練って寝かせておくと良いパンができます。基本もそのようなものではないでしょうか。時間はかかりますがよく練れば時間がかかってもよいものが仕上がる。基本を端折るとその後の広がり方が粗雑になります。基本がしっかりしている人ほど応用力も高いと感じますが、それでも基本に縛られない人という意味です。逆に基本は完璧でも応用が全く利かないのもこれまた困りますが。
良く言いますが一芸は万芸に通ず。それを全うできるくらい基本を見定め、尽くせるようになれたらと思います。
平成二十七年長月朔日
不動庵 碧洲齋