不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

平和と安全

これは長年私が外国人と交流を持ったり、トータル5年弱ですが20代の頃に海外に住んだことがある経験で感じたことなのですが、多分日本は平和と安全がかなりイコールに近いように感じている人が多い。

アメリカでも宣伝などで言葉のアヤで「安全」を「平和」と言うことはありますが、やはり基本違うものです。

良くも悪くも日本は恐ろしいほどに安泰な社会であると、時折恐ろしさも感じます。

これは海外の同門も良く言うことです。

昨夜、寝る前に息子に一枚の写真を見せました。

画像

一昨日、トルコのリゾート地の浜辺に打ち上げられた3歳の男の子の遺骸です。シリアからの難民で、ギリシャ経由でトルコを目指していたとか。昨日、世界で最も見られた画像ではないかと思います。あまりにも悲惨な写真で私も一日中ブルーな気分でした。

これを見た息子もショックで言葉を失っていました。

「『私は安全です』と「『私は平和です』何が違うと思う?」

息子に尋ねました。息子はしばらく考えてから、

「安全は体の方で、平和は心の方を指して言っていると思う」

「うん、その通りだ」

安全は物質に依存します。

安全は武器や経済で保全することが出来ます。

安全は人類の知識の集積を駆使することで実現が可能です。

でも安全とは何でしょうか?

安全とは特定の地域にのみトラブルがないことを指します。

街だったり国だったり、とにかく政令的、国際間的に線引きされた地域にトラブルが起きないことを指します。

平和は必ずしも物質に依存しません。

安全は自分が飢えているときにパンが与えられて、飢えから逃れることが出来る状況を指します。

平和はそのパンを半分に割って隣人に与え、例え自らが腹一杯にならなくとも、自分の我慢で他人も幸せになることを指します。

自分の地域が安全であっても、行ったこともない貧しい発展途上国の子供たちが戦争や飢餓で死んでいる事実を知り、心を痛めればそれは平和ではありません。

心の平和は宗教でも言われますが感謝の心があれば比較的到らせるのには難しくありませんが、個体の外でそれを実現させるとなると、大変難しい。

多少の誤解を恐れずに言えば、安全は武器や経済、人智によって可能ならしめるも、平和は人智を越えた神や仏の力がなくては難しい。世界中の神に祈っていても難しい。

安全には国境が必要です。

平和には国境は不要です。

安全の上位概念に平和があるわけではありません。基本、安全と平和は全く別物です。

・・・私の認識では。

自衛隊はよくやってくれていますが、基本日本の安全を維持するだけです。付属的に同盟国や国連の要請で海外にも出動しますが、それでも安全を守る以上の事は出来ません。ポスターや謳い文句に書かれている「日本の平和を守る」これはウソです。世界が全部安全にならない限りは平和では有りません。

息子に宇宙開発はどこか特定地域の安全のためにスパイ衛星や情報収集衛星GPS衛星などを打ち上げることはあっても、それとは別に、世界の平和の為に宇宙開発で何が出来るのか、いつも考えねばならないと言っておきました。平和だけ目指せば良いというようなきれい事は言いません。しかし安全だけだったら人は多分、ずっと争ったり緊張し続けるような、残念な状態を続けなければなりません。

息子的には平和は人の心に依存しているものなのだから、本来、安全よりもっと手に入れられやすいものではないかと言っていました。逆説的ですが確かにそうです。物質に依存しないのだからその通りです。そして多分、もしかしたら世界の9割ぐらいの人は争いのない、平和な世界を願っているのかもしれませんが、残り1割がそうではないからこのような悲劇的なことが頻発してしまうのではないかと思います。安全は段階を踏めますが、平和はスイッチのようなもので「ある/ない」のように絶対性がない限りははらないものかもしれません。

私の武道や禅もささやかながら日本人のものの考え方を世界に広めて、平和に貢献したいと思っているからです。世界で最も古い国の考え方は多分、何かしら優れたヒントがあるに違いないと思うからです。

・・・と、昨夜は息子とそんなようなことを語り合いました。

歳のせいか涙が止まりませんでしたが、息子には十分伝わったと思います。

シリア国内のISの蛮行が早く一掃されて、皆が脅かされずに暮らせるようになることを祈っています。

*写真の掲載についてはいろいろ考えましたが、懇ろに祈りを捧げ掲載させて頂くことにしました。世界中の大人が祈り行動を起こしてこのような惨劇を防がねばならないという戒めとして。この男の子や家族、亡くなった方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。

平成二十七年長月四日

不動庵 碧洲齋