一応私は当流の師範の末席を汚している身として、時折、弟子たちの昇段申請をします。
段位というモノが果たして良いのか悪いのか、今に至っても悩みます。
だから昇段の際はいつもある意味、憂鬱な気分にさせられます。
師範になって弟子を取った以上、そういう義務が発生するのは当たり前です。
弟子を取って、自分の武芸の研鑽にプラスになる代償とも言えるかも知れません。
よい効果もあり、弊害もありです。
名称はともあれ、現代武道・古武道で多く採用されているところを見ると、やはり有効な側面が多いのかと諦観しています。
個人的にはそういうモノはなくてもよいと思っています。
戦国時代にはそんなご大層なモノはなかったと聞きます。
門下生は好きでやっているのだから本当はいらないのです。
ただし、自分が今、どのくらいの場所にいるか、どのくらいの力量なのか、励みになるとか楽しみにするとか、そんな意味合いだと思っています。
それは門下生が必要なのであって、師範はまずそれを見極めて適切に与えるのが使命なのかとも思います。
故に昇段は正段たるべきだと思っています。
段位が隆盛してきた江戸時代半ばから、もしくは戦後から、平和な時代なればそういう付加価値的なモノを求めるのだと思います。
実戦に用いる機会が減った以上、それはそれでやむを得ないのも分かります。
廃れてしまうよりはずっとマシではあります。
ただその付加価値をうまく利用する武道屋もいます。
日本人にもいますが、外国人に多い気がします。
厚すぎてトイレットペーパーにはならない、暖を取るには少なすぎ、メモを取るには書かれすぎ、環境汚染するほどまでに捨てる価値も無し、せいぜい自分の励みになる、まさにその程度のモノです。
また、その紙は持ち主を保証しません。
持ち主がその紙を生涯保証します。
その紙切れを担保に商売をするなら、それは昇段ならぬ商段です。
ただ、武芸の哲学を自分のビジネスに応用するのは大いにアリだと思っています。
単にそれをビジネスの種にしないと言うことです。
もっともそのモラルもエベレストの高みからマリアナ海溝の深みまであるような地球地理と等しく、国によってものの考え方が異なる故に、崇高な武芸者から唾棄すべき輩まで様々です。
人殺しの技を伝授して上達具合で段位を与える。
武芸における伝授を端的に言うとこうなりますが、古来より日本人はその不毛な技術をさまざまな芸事と組み合わせ相乗効果をもたらし、世界に冠たる日本武道に昇華せしめた功はなかなかのものだと、武芸者の端くれとしては日々そう思います。
それあるが故に昇段さす憂鬱も自身の精進と思い、弟子たちと稽古に励んでいる次第です。
SD110527 碧洲齋