不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

明日があるさ

画像

明日があるさ明日がある

若い僕には夢がある

いつかきっといつかきっと

わかってくれるだろ

明日がある明日がある

明日があるさ

坂本九さんの「明日があるさ」の最後、6番目の歌詞です。

昨夜は臘八坐禅会2日目。

1柱目は40分早く来て、70分坐ります。

さすがに昨日は平日と言うこともあり、初日に比べて随分人が少なくなっていました。

昨日はふと、静中の工夫として「この坐禅が終わったら、腹切りをして介錯される」と思って坐ってみました(笑)。

明日、地球が滅ぶとしたらあなたはどうしますか、とかいう質問を見かけたことがあります。「いつもと変わらず社員食堂のBランチを食べる」という殊勝な答えをする人もいますが、例えばこれが自分だけ明日を生きられないという状況だったらどうでしょう。

坐禅を終えて、自宅のドアを開けるまでに確実に死ぬことが判明している場合、人の行動はどうなるでしょう。

・・・と、そんなことを想って坐ってみました。

丁度、私の左側は禅堂の壁です。白壁を介錯人に見立てて坐ってみることができました。

ほんの一瞬だけ、息子の顔を最後に見たかった、とか、もっと勉強や稽古をすればよかった、とか頭を巡りましたが、その後は至って簡単、一呼吸一呼吸、最後が来るまでその一瞬を舐め尽すかのような境涯を感じました。リアルすぎて怖かった気がします。

石田三成が捕まり、河原で打ち首になる前に喉が渇いて茶を所望したところ、柿を渡され、腹を壊したくないといって食べなかった理由がよく分かります。

師は一動作、一動作、思いを入れず、その所作に成り尽す、成り潰す、とよく言います。それがために、多くの禅僧は一動作、一所作ごと丁寧に行う為に音を立てないのだと言っていました。

実は私も別の武芸的アプローチからそういう所作をしばらくやっていましたが、やはりやっているうちに丁寧な一動作ごとの中に仏性を感じた気がしました。

ダウンタウンの浜ちゃんが悪いわけではないのですが、「明日があるさ」こう思って生きてませんか?

武道の稽古でもこういうことがよくあります。

いわゆる予定調和の技の掛け合い。

私はこれが嫌いで、決まった型の稽古であっても予定調和は完全無視します。

予定ではない調和はします。

同門、後輩からは時々怖がられますが、実際使うときになって使い物にならないよりはマシです。何年も稽古してきて使えないシロモノだったときの絶望感はいたたまれないと想像します。

明日があるさ式の稽古では決して上達しません。

だから明日があるさ式の生き方では真理に届かない気がします。

「試合」と「果し合い」というものがあります。

スポーツが前者、武芸は後者です。

今時のゲームでも命は幾つかありますが、あいにく人の命はたったの一度でやり直しは利きません。

スポーツには武芸にはない素晴らしい点があることは言うまでもありませんが、スポーツと武芸の決定的な違いは「試合」と「果し合い」という違いそのものではないかと思っています。そしてその違いが言葉に出なくとも日本人の心に深く焼き付いているから、この平和な時代でもスポーツではない、道場に通ったりしているのではないかと思います。ここが西洋人とはある意味違う部分だと言えるかもしれません。

私たちはいつも、そういう真剣さの上に成り立っているはずなのですが、私たちの意識は大抵、「明日があるさ」式の予定調和にレールが引かれているように思います。

しかし明日が来るなど、実は誰も保証できません。保証してはいけない類ではないかとさえ思います。

この直後死ぬ、明日を見ることができない、とか、時々そんなことを考えながら生きたら、日々つまらない生き方をしていたとしても、充実度が変わってくるのではないかと思います。

今その場で殺されても思いが残らないぐらいに徹底して生きたいところです。

平成二十五年師走三日

不動庵 碧洲齋