不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

方程式のように

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私は全くの文系で数学はずっと苦手でしたが、大人になってからふと、数学は面白かったのかも知れないと思うようになりました。答えが1つとはなんと芸のないことかと思う反面、その答えに到る道が多岐に亘り、迷路の如くであるという様が数学に興味を抱かせているのだと思います。昨今は大人向けの数学の本も見かけましたから折をみて読んでみたいと思います。

武芸も似ているところがあります。

「自分」が「そこに到る」という点。自分の動きという数式が、完成された技という解に到るまで、色々な解法があるということ。

学生の時はテストの時などは、その解を知りたいと思ったものですが、実際研究者たちはその途中経過、解法を注視しているものだということを大人になってから知りました。

20代の頃、私は留学したり海外や地方に赴任していたことが多かったので道場に行けず、独り稽古を良くしました。その間、独自に思い付く限り、色々な独り稽古を試し、繰り返しました。その中の幾つかは偶然にも古来から知られていたものだったり、有名な武人が行っていたものだったりもしましたが、創意工夫を重ねて得た、独り稽古の技術はある意味自分の宝物です。先生や先輩に言われただけの稽古しかしない人は多分、アドバイスをした人を超えることはできません。

とは言え、それは決して秘伝というものではありませんが、なかなか口頭では分かりにくく、指南を求めてきた方々に時折教えたりという程度です。学問でも同じ事が言われますが、何がどう問題かという自覚がないと前には進めません。そういう意味で問題意識がないと独り稽古はあまりやっても意味がないかも知れません。坐禅などでも、悩みのない人がやるよりも悩みを抱えた人の方がより禅定が深まるそうです。

あくまでも個人的な意見というか感覚ですが、その問題意識を体の隅々から日常の隅々まで満たしている人ほど、思わぬ発見があるように思います。ただ稽古をする、だけでももちろんそれなりの上達はするものですが、問題を探す意識を常に持った人が稽古をする方が遥かに上達は早いものです。そういう意味で日常生活において、所作や立居振舞がいい加減な人はなかなか問題意識を隅々に昇らせることは難しいのではないかと思う次第。それと観察力に優れない人も難しいのかも知れません。

稽古ではもちろん正確に動きがトレースできなければなりませんが、それ以上に重要な事はそれをする相手の意図、その動きの要を知るに足る観察力を身に付けると言う事かと思います。もちろんその観察力も動物的な勘はもとより、知的根拠による場合もありますから文字通り文武両道であることは言うまでもありません。

平成二十八年皐月二十四日

不動庵 碧洲齋