「看脚下」は、禅語の中でも特に有名なものです。
「看脚下」は五祖法演禅師と弟子たちの話に生まれます。
ある夜の帰り道、手にしていた灯火が消えてしまいました。
この時、法演禅師が「さあ自己の見解を述べよ」と命じ、園悟克勤は即座に「看脚下」と述べたそうです。
私もこの話は結構好きです。特に最近になって気になり始めました。
禅宗の僧侶は「行雲流水」から来た「雲水」と呼ばれます。
現在ではもはやそのような修行方法はほとんど見られませんが、戦前ぐらいまではひとところに留まらず、仏法を極めるためにあちこちの寺に赴き、数ヶ月から数年も修行したそうです。
現在ではどこの禅寺に行っても、玄関に「看脚下」の看板を見ることができます。
もちろんこれは参拝にやってきた檀家さんやお客様に対する「足下にご注意ください」という気配りでもありますが、もともと禅寺は「修行道場」がベースになっていて、修行をするための場所という目的に重きが置かれていました。
それ故にこの「看脚下」はやってきた雲水たちに対する戒めでもありました。
雲水たちが新しい寺にやってくると、当然、入り口には「看脚下」の看板が目に付きます。
禅宗、特に臨済宗では非常に多くの公案(いわゆる禅問答)がありますが、「看脚下」もその公案から生まれた言葉ですからやはり公案と見なされるそうです。
「看脚下」を単に「足下にご注意ください」などと思っている雲水は即座に大喝を入れられてしまいます(笑)。
私は僧侶ではありませんが、一武芸者として禅寺にて坐らせていただいております。
なので毎回、「看脚下」を目にします。
「看脚下」と書いて「おろし金」と解く、その心は「その長い鼻をおろしやがれ!」。そんな風に見ています。
毎回、参禅するたびにより深く、より高く、より広くなどと、心があらぬ方に飛翔して深淵かつ幽玄な仏法の妙を得てきたと思いがちですが、本来、仏はそんな遠いところではなく、まさに足下、私たちをしている、まさにそのものです。
白隠禅師和讃にも「衆生本来仏なり。衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。」とあるように、本来は西遊記よろしく、遙か西方の彼方、ガンダーラまで行かずともよいはずです。
しかし逆にそんな近くのモノであるが故に、私たちは気付くことができません。
禅宗の専門道場では多くの雲水さんたちが毎日、言語に絶するとんでもなく厳しい修行をしているのはそのまさに「看脚下」にあるものを見出そうとしているがためです。
そう考えると、孫悟空が觔斗雲に乗ってガンダーラまでひとっ飛びできず、苦しい思いをして歩いて少しずつしか行くことしかできないという話しはなかなか深い気がします。
「それがどこにあるか」などと考えているうちは超光速宇宙船があっても決して届かない、遙か先にあるのでしょう。
武芸者として私も他流を見たり他の道場に行くことはありますが、そんなときにも「看脚下」は重要です。
見学するときや出稽古をするとき、「看脚下」の心がある人とない人ではやはり大きく違うように思います。
実際にも足下が見えない武技に素晴らしいものはありません。
最近はマンガやテレビの見過ぎで、「奥義」とか「秘奥義」とか「究極奥義」なんて知りたがる人、欲する人がいますが、もちろんそんなものは「ある」という言い方はできません。
ないわけではありませんが、「ある」というものでもないと思います。
言ってみればそれは「ピラミッドの頂点の石」。
「看脚下」のない人が、いきなりをそれ手にしても全く意味を成しません。
基礎から順々に積み重ね、最後の一角として「ピラミッドの頂点の石」を頂く人だけに意味があります。
奥義も強いて言えばそんなものではないでしょうか。
要するに日頃からたゆまぬ稽古を積み重ねて、必要なとき、必要な相手がピタリと合った時、うまくしたら使えるかも知れない、という程度のものです。
日頃からありきたりのことを非凡にこなす努力の方がよほど重要です。
それを戒めてくれる言葉が「看脚下」のような気がします。
SD120130 不動庵 碧洲齋