不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

握手のこと

武芸者というのは基本的に所作を極力慎むものだと心得ています。

大きな所作、不要な動作は他人に力量を知られてしまいます。24時間365日、その一瞬一瞬が修行です。力道山は強かった方ですが、あえなくリングの外で殺されました。格闘技家はリングでの負傷、不慮の死は許されますが、武芸者は両腕両足をもがれてもその時に敵が死んでいれば勝ちです。生き残っていないと意味がないのです。

武芸者は基本(あくまで基本)試合をしません。武芸者は真剣ですから試し合いなどしません。言ってみればぶっつけ本番という奴です。

だから武芸者たる者は決して「じゃあ試しに俺と戦ってみろ」なんて言ってはならないと、個人的には思います。そういうたわけたことを言う輩は、基本的に私は武芸者・武道家としては認めたくありません。

だいたい、大の大人が殴ったら刑事事件に発展します。黙って殴られた方が社会的に勝てるなら私は多分そうします。そうできる勇気があります。そういう場合、敵を押し潰せる誘惑よりも社会的に正義を唱えられる勇気の方を持ちたいところです。

現実的には実際に試合がある武道もありますからそういう訳にはいきませんが、試合であっても上記のような心がけは持ちたいものです。

また、そのような訳で武芸者は忍耐に忍耐を重ねなくてはなりません。当流の先代宗家は現在の宗家にこんな武道歌を残したそうです。「忍べや忍べ唯忍べ抜けば斬るなよ唯忍べ」間違っていたら済みません。詳細は思い出せません。真剣を持ち、用いる者はこのくらいの忍耐があって然りだと心得ています。

武芸者は万事に用心深く、かつ自然体でいなければならないと思うのです。

と、ここまでが前置き。

親しい他流の武友がいます。歳は同じでこの世界に入ったのは4年先輩。

ネットで知り合ったのはもう何年も前の話ですが、実際に会ったのはごく最近でした。

実際に会ってみてネットよりも打ち解けた方に感じました。

それでいて奥が深くよくものを識っています。

私などは到底及びも付かず。

初対面は居酒屋で語りましたが、今でもよく思い出せる程仲が深まった気がしました。

(私はほとんど飲めませんが、彼はよく飲みます)

決定的だったのが駅での別れ際。

彼から何とはなしに右手を差し伸べ、私も自然握り返しました。

日本人同士で握手というのも珍しいですが、武芸者としてこれは特筆すべき事です。

武芸者にとって手は命です。これがないと刀が握れません。拳を出せません。

だからそんな大事な手を普通、しかも初対面で差し伸べたりしないのです。

私の場合、道場で出稽古に来ている外国人に対してさえ、おいそれとは初対面で握手をしません。

さっと右手を初対面の人間に差し伸べるなど、本来は武芸者としては不用心極まりない行為なのです。

ところが私が武芸者として極めて見識が高いと思った方がさっと右手を差し出し、私も自然と違和感なく右手を差し出しました。

こういう例は滅多にないと断言できます。

こういう行為が自然と出たということは、多分生涯に亘って付き合える武友なのだろうと確信しました。

そのように閃く武友はそう多くありません。

ここ数年、色々な方と知り合いましたが、こんな風に知り合えることは偶然で、こういう縁は希少かつ貴重ではないでしょうか。

武芸に秀でた人は何人か知っています。仲のよい人もいます。しかし両方持ち合わせている人は少ないです。しかもこの歳になると頭を下げてまで教えを請いたいと思う人は年々減ります。そういう意味では彼との遭遇は天恵と呼べるものがあります。

以前、どこか他流の方で、武芸者は絶対に特に初対面の人に右手を差し伸べるべきではないと語っていましたが、それはひとつの正解です。しかし多分その方はまだ、右手に固執しているように思います。太刀を握ること、生にへばりついているように思います。私は武芸者にとって生死は勝負の外側にあるものだと心得ています。それが分かるか分からないかで、ある一線を越えられるのではないかと、私なりに思っています。

用心深さ、用意周到さを持ち合わせた上で、それを上回る何かを持つ人が現れて、誠実をスッと出されたら、あうんの呼吸の如く、躊躇せずに自分の誠を差し出し返す自然さと泰然さを持ち合わせたいものです。天機と言うのでしょうか。それを知るのも武芸者としても重要な智慧かと思います。

平成二十四年長月二十四日

不動庵 碧洲齋