不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

碧呟聲 勝つと克つ

昔から戦時では「勝てば官軍負ければ賊軍」と言われる。賊軍ならまだマシな方で、全滅させられることもしばしば。かと思えば危うく全滅を免れた賊軍が何十年か後にリベンジを果たして逆襲に成功した話などは「臥薪嘗胆」にもある通り大変厳しい。

私如き未熟者がエラそうなことを言うまでもなく、「勝つと克つ」については多くの先達たちが色々書き残しているため今更言うことでもないと思うが、ふとした思い付きを呟くのが碧呟聲なので少々。

格闘技はスポーツである。故にチャンピオン、もしくは1位、つまりトップを目指さないと意味が無い。客観的数値に置き換えられ、自他共に認められる一番になることと心得る。つまり他人よりも秀でることが求められる。その代わりフェアなルールがたくさんあり、条件、場所、相手、時間などは常に固定されていて不意に起こることはない。

一方の武道は古来では軍事訓練に由来する。日本においては戦国時代以降は軍事訓練から自己修練の要素が加わり、明治以降は軍事的要素がほぼ排除された。現代では純粋に自己修練の方法の一つと見做される。ここで言う武道は古武道のことだが、試合がない代わりに、戦いの条件や場所、相手、時間が特定されない。

格闘技家が街中で人に刺されて死んでも恥ではないが、武道家-私は好んで武芸者を使っているが-が刺されて死んだら末代までの恥だと思っている。あるいは格闘技家は試合に再挑戦があるが、本来武芸者は果し合い、つまりたったの1度切りの戦いしかない。戦いに限らず社会生活では万事そのようでなくてはならないという心掛けで武芸者たる者は日々臨まなくてはならないが、私は仕事でも家庭でも結構叱られてばかりなのであまり大きなことが言えない(苦笑)

相手がいて相手より秀でることを証明するために戦い、証明されたことが「勝つ」

相手はおらず日々己自身と格闘することが「克つ」

前者には過去形があるが後者にはない。過去形が使えるのは棺桶に入った後、ぐらいではなかろうか。

更に「克つ」ための条件は自分自身で自由に変えられる。楽をすることも難しくすることもできる。この誘惑こそが「克つ」ための最も要であると思う。特に現代は恐ろしく便利な利器に囲まれている故に熟慮しても全て排除することができない。これが難しい。

格闘技が楽だとは思っていない。その決められた一点のために集中して成果を出すという、人間の限界を見せることはかなり凄いことだと思う。武道はそういう節目がほとんどない分、難しい。

私などは結構怠惰な人間の方だが、真面目に取り組んでいる同門先輩後輩たちを見ているといつも恥じ入るばかりである。

令和二年睦月四日

不動庵 碧洲齋

DSC_2628.jpg

#武神館 #道場 #入門 #埼玉 #草加