不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

中国について思ったこと

昨日、息子と風呂に入ったとき、なにげに聞いてみました。

「もし中国と戦争になったらどうしようか。」

「戦争になりそうなの?」

「さあ、このままいくと、ちょっとした戦争はあり得るな。」

「止められない?」

「日本人や中国人の多くは戦争なんてしたいと思っている人は少ないが・・・」

「じゃあなんで戦争が起りそうなの?」

「戦争をしたいと思っている人の声と権力が強いんだろうな。」

私は息子には中国と韓国と北朝鮮は明らかに常軌を逸した反日国家であることは常々説明していますが、そうであっても一つの国家を一つの人格と見なすようなことは決してしてはならないと言います。

うちの会社の中国工場には心底日本が好きな人もいます。誠心誠意、こんな会社に忠誠を尽し、懸命に働いている人もいます。一部の権力と声が大きい人たちの思惑だけで、選挙権すらない民衆を道添えに不幸な方向にまっしぐら進んでいる中国を、どうしたらいいのか。私の親しい友人が言うように、距離を置いて、最低限度の国交だけにするというのが正直一番安全な方法ではありますが、世界で中国と韓国ほど日本に近い国はありません。引っ越すわけにはいかないところにこの苦悩があります。

国家として仲良くするという方法は基本的に私はほとんど不可能だと思わざるを得ないことがあります。日本が全て正しく、あちらが全て悪いとは言いませんが、世界中の友人から聞いた限りでは正すべき事が多いのはやはりあちら側です。

「中国とか韓国とか日本のいい人たちだけで戦争が起きないようにみんなで一生懸命に努力して、それでもどうしても戦争が起きたら全力で戦うしかないと思う。」

息子は仕方なさそうに言いました。

小学生にそういう質問は不適切だったのでしょうか。よく分かりません。私は時々、小学生には難しすぎる難題をよく息子に与えます。

私の世代で戦争が起きたら、これは本当にご先祖様に申し訳が立ちません。母方の祖父は何のために戦死してしまったのか。私はどうあっても戦争を支持しません。今時戦争をして得することなどほとんど何もないからです。

先の靖国神社では、若いお兄さんたちが数人で「中国と戦争になっても撃滅できるよう祈ろうぜ」みたいな会話をしていたのを聞きましたが、息子がいなかったらそいつらこそ私に撃滅されていたことでしょう。靖国神社で戦争に勝つ話しをするな。何としても戦わずに済むことを祈れと言いたい。勝利に必要なのは優秀な軍隊と優秀な政府、そして世論と大義それだけです。それ以外は何も要りません。

愛国心は十分にあるつもりですが、ほんの少し不利でも両国の国民が安全と安心を得られるなら日本人は少しぐらい折れてもいいとさえ思います。しかしながら中国の動向を見る限り、中国政府は「少しぐらい」ではまったくなさそうです。

息子の世代で戦争が起きてしまう、想像すると恐ろしく感じます。

中国と朝鮮半島の二ヶ国がこの世からキレイサッパリ抹殺されて気持ちいいのは日本と幾つかの国だけ。しかも現実にそんなことできるわけありません。想像するだけ無駄な気がします。

中国はたぶん、もっと小さな国に分割してまとまった方がいいのではないかと最近よく思います。例えばですが内モンゴルはモンゴルに返して満州、中原、沿岸部、四川省辺り、チベット雲南省辺りとか、分かれればもう少しじっくり自分たちの国の有様を把握できるのではないかと思います。

私は息子に言いました。

「そうだな、戦争になってしまうまでに、戦争が起きないように中国人たちや韓国人たちと協力して防ぎたいな。靖国神社に祭られている人たちだって戦争がいいとか戦争に勝ちたいとか思わないだろうから。」

今時20世紀初頭に行われたような戦争をして得をすることはまずありません。勝っても負けてもその後の経済的な負担や損失を考えれば普通の経済立国は尻込みします。そう思いたい。

戦争が起きたら全国民は挙国一致で戦い、しかもその間、やはり全力で戦争をやめられるように画策をせねばなりません。しかしそうなるまで、同じぐらい死にものぐるいで戦争が起きないようにする、これが次の世代の子供たちによりよい未来を手渡す大人の責任かと思います。

中国人や韓国人を憎むように子供を育てたくはありません。それはどんな意味に於いても決してよいものではないからです。子を持つ親にはこの意味はたやすく理解できると思いますが、そうでない人にも理解して頂ければと切に願います。

平成二十五年師走二十四日

不動庵 碧洲齋