不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

言葉の在り方に想うこと

木の葉見て

共に落ちるな

秋の瀬に

佇みたるが

真なりけり

目は二つ

耳も二つに

口一つ

この故知りて

使うべきなり

一つある

口を増やして

みるならば

姿かたちは

人にあらざる

弁で撃ち

論で叩きて

知で仕留め

遂に制する

ものはなくして

禅をしばらくした後に綴った駄句です。

私は10代後半から30代前半ぐらいまでは、まあまあよく弁の立つ、鼻持ちならぬヤツでした。本もかなりよく読み、普通の人よりは世界中の人たちと交流があったので、それなりに見識は狭くはありませんでしたが、相手を言いくるめたり強弁して相手をねじ伏せるようなことがしばしばありました。目前の人は敵か味方か、まあ、少々過激ですがそんな感じです。

禅を知ってからはがらりと心を入れ替えました。少なくともそう努力し始めました。

仏道と禅のなんとありがたいことか。

ガチガチ、コチコチに凝り固まった我をよくもまあ変えられたものだと、いまだに感心します。

金剛石のような固い心を打ち砕くには、色々ありましたが、今は何と言っても仏や皆様のおかげさまです。今振り返ると薄氷を踏む思いでした。

映画で良く、軽機関銃とか短機関銃をスバババと撃っているシーンがあります。

一方で、ゴルゴ13のように遠距離から1発で仕留めることもあります。

通常、手軽に持ち運ぶ機関銃の弾丸というものは、拳銃の弾丸と同じであるものが多く、実は威力がありません。ショートレンジをたくさんの弾丸でカバーしようという発想です。

ライフル弾は形状から、小型の機関銃の発射には向きませんが、威力は格段に優れています。

戦争などの場合では状況によって用途の違う兵器を投入するべきものですが、戦時中、日本軍は弾丸を1発ずつボルトアクションで発射するタイプのライフル銃を使用していました。また、機関銃の装備も米軍に比べて桁違いに少なく、自動発射できた米軍のライフル銃や比較にならぬほど多数装備された機関銃に苦しめられました。「1発撃つと1000発のお返し」という言葉があったくらいです。

日本軍として、別段技術力がなかったわけではありません。戦前から欧米に引けを取らない兵器を製造していましたから、電子機器はともかく機関銃如きは問題ありませんでした。装備されなかった理由の一つが「無駄弾が多くなって補給が間に合わなくなるから」というものです。現実に大戦で死亡した陸軍兵の7-8割は驚くべきことに戦死ではなく、病死や餓死です。補給が間に合わなくなるという予想は想像以上に当っていました。なにせ医薬品や食料ですら補給できなかったのですから。

しかし戦後、オイルショック以後、皮肉ではありますが、そういうものの発想は当を得てきました。今や日本製品は無駄なく高品質、エコロジーです。大量に生産して大量に消費するという発想は現実の物となると日本人には合わなかったようです。その辺り日本文化の奥深さと言って良いかも知れません。

言葉も同じです。ハリウッド映画では機関銃のようにしゃべりまくる俳優がいますが、日本映画では沈黙の間がとてもよく使われます。現実にリサーチにおいても日本人は会話の間を良く用いるそうです。機関銃のように言語を放ち、相手を制圧するという行動はしばしば非難されます。それが例え正義であっても、日本人は時として正義イコール道徳とは見なしません。そこが一神教ではない日本の文化であり、奥深さではないかと思う次第です。沈黙は金なりという言葉ありますが、欧米では言葉だけで日本の方がよく理解されているようにも思います。

私も10年前に比べると、ガグンとシャベらなくなりました。沈黙の尊さ、沈黙することの深みがようやく分かってきたためです。口一つ分になったとは言いませんが、前みたいに二つよりは少なく、1.4個分ぐらいにはなってきたでしょうか。

そんな折に上記の4句をしたためました。

木の葉見て

共に落ちるな

秋の瀬に

佇みたるが

真なりけり

これは木の葉を言葉にかけて、言葉尻に乗って騒ぎ、(秋)呆れられるなよ、という意味に引っかけています。

そしてそいつがくっついていたものこそが真の本質だということです。

30代半ばで気付いたのは幸運です。

これが40代、50代、60代、70代になってしまったら、まずまず修正することは不可能とは言わないまでも相当な苦痛と苦難があります。そこまできて自分を直すことができる人はかなりものもです。

70代で1人、自分をいまだに直そうとしている方を知っています。

名前は控えますが、私が通う春日部武道館に時折、当流の見学に来る方です。

かの合気道養心館塩田剛三先生の直弟子だった方です。

今は多少身体を悪くされていて、稽古はされていませんが、当流に見学に来ると、大変恐縮することに、いつも感心しきり、過分なことにいつも褒めてくださいます。

70過ぎて他流を惜しみなく賞賛する、自分の流派よりも素晴らしいところを素直に褒めてくれる、これはある意味自分を否定する行為です。自我がある人には到底難しいでしょう。自我を否定したら世の中での存在意義を喪失してしまうと思うかも知れません。この先生には合気の如く自我がないのかも知れません。自我がない人には真実があります。

取りあえずそれが禅によって理解し得たことだけでも儲けものですが、私の場合、まだまだ自我の殺し方が足りません。自我こそ人生において倒すべき最大の敵と悟った人、悟れない人では天地ほどの差がありますが、更に自我を倒せた人、格闘したまま成仏する人、全く歯が立たない人、色々いると思います。武芸をして自我ほど倒しがたい敵はいないと言って良いでしょう。

弁でゴリ押しして知識で攻め、相手の弁を封じてもそれは勝ったことにはなりません。文字通り、言葉に付いて秋の瀬に落ちる落ち葉のようなものです。全員とは言いませんが、このような人は概して相手の弁には決して納得せず、そもそも相手が語っているときは聞きもせずに次弾装填して、今か今かと総反撃の準備に忙しい人です。そんな方は概して周囲に気を配るべくもなく、大反抗準備に忙しい人です。本人は決して気付かないものですが、そういうことをしている横顔は決して褒められた相をしていません。そしてそれは歳と共に意固地となり、取り返しの付かないレベルになるやも知れません。私もかつてそんな手合いでした。

若い内はいいかもしれませんが、重歳してそのままだったら化け物妖怪の類です。

家康の遺訓にも「及ばざるは過ぎたるより勝れり」とありますが、言葉に限っては間違いなくそう思います。

と、週末に徒然思ったことでした。

相手と意見が食い違うときは、敵意をむき出しにしないで、相手を尊敬している気持ちを、表情にも行動にも言葉にも表すよう努めることだ。

(ポール・ダグラス アメリカの政治家・経済学者)

平成二十五年卯月十五日

不動庵 碧洲齋