不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

同伴者と傍観者

最近、ずっと考えていたことがあります。

インターネットがこれほど普及してきているのに、世の中はどんどん寒くなります。

コミュニケーションが増えてきているはずなのに、孤独が取り沙汰されています。

苦しみ、悲しみ、嘆いている人がいます。

その人になったつもりで共に苦しみ、悲しみ、嘆く、これが同伴者。

苦しみ、悲しみ、嘆きの原因を聞き出し、回避、解消のための忠告をする、これが傍観者。

これはどちらかがよくてどちらかがいけないという意味ではありません。

人間には多分、どちらも必要だと思います。

ただ、現代においては前者が決定的に減り、後者ばかりが増えています。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とはキリスト教ですが、まさにそれです。仏教ならさしずめ慈悲でしょうか。親切心で何か言ってやることではないのです。一緒に苦しみ悲しむこと、それが必要なのです。

同伴者は絶対的視点です。自他がない。その人になりきって一緒に悲しみ、苦しみます。その主体者と同一になるので、自他の分別がありません。

一方、傍観者は相対的視点です。自他がある。自分が他人にアドバイスします。親切で相対する人として解決策やら慰めの言葉を発します。

傍観者は即席です。特にインターネットが発達した現代では、いつでもどこでも誰でもごく簡単に傍観者になり得ます。しかし同伴者になるためには時間がかかります。すぐに同伴者にはなれません。偉大な宗教の開祖などは別でしょうが、普通はなかなかなれないものです。家族は同伴者であるべきです。親しい友人、仲間にもそうあるべきですが、なかなかそうはいかない場合が多いでしょう。

悲しみのどん底にいる対象に「ああ、悲しい!」と自我を擲って、同じ想いに心を満たせる人は決して多くありませんが、誰にでもできるものだと信じています。ここで、「不安要素の解決のために、適切なアドバイスをした方が論理的なのに」と思う人は多分、同伴者にはなれません。

「包帯を巻けぬ者は傷に触れてはならない」という言葉があります。

思うに同伴者は包帯を巻くとかではなく、その傷を共有できる人だと思います。

この言葉は傍観者に対する注意だと思います。

同伴者は悲しみを抱いている人そのものです。

だから何をして欲しいか、何をすべきかが分かります。

私はなるべく家族や友人たちの同伴者でありたいと思います。

平成二十五年卯月十五日

不動庵 碧洲齋