昨日、風呂場でした息子との会話。
「こないだ読んだ本にさ、『手や足の汚れは常に洗えども心の垢を洗う人なし。』っていう言葉があったな。手や足の汚れは気になるのに、心の汚れを気にしない人が多いって事かな。」
「じゃあどうやって心を洗うんだろう。」
「そうだな、坐禅とか、読経とか、まあ良いことをすると洗えるんじゃないのかな」
「だって心って見えないじゃん。」
「そうそう、こんな話しがあるんだ。あるとき、仕事で疲れた侍がお坊さんに泣き言を言うんだ『仕事で疲れて心が折れそうです』。お坊さんは『それは可哀想じゃ。どれ、心を見せなさい、私が治してあげよう』侍は『はぁ?心なんか見せられるわけないでしょう!』そしてお坊さん『見せられないものが何で折れそうになるんじゃ?』」
息子はかなりウケたらしく、しばらく笑い転げていました。
「でも変だな。お経には『それは汚れたりきれいだったり増えたり減ったりしない』って書いてあるって言ってたよね?」
「・・・だよね~」
「で、何で汚れるの?」
「良い質問だ。『自分がいる』と思い込んでいるから心が折れそうになったりとか、傷ついたりしていると思い込んでいるのかも知れないな。」
「そうそう、俺たちって仏がしているんだよね」
「仏様が悩んだり傷ついたりするわけないよな。本当は悟って安心しているはずなのに、自分がいるって思っているから要らないことで悩んでいるんだろうね」
自分はなぜ意識するのか、意識しない仏は何故あるのか、まあ考えたらきりがありませんが、時折かわす、風呂場での会話でした。
平成二十四年如月二十二日 不動庵 碧洲齋