不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

平和大国の名の下で

シンパイと

文字にすれども

その実は

針を配りて

心配らず

最近よくニュースで餓死、孤独死という死に方を見かけます。

他にも虐待死などもですが、他人の死がすぐそばにあるのに恐ろしく鈍感な社会に私は恐れを抱いています。

死んだ方は他人に迷惑をかけるのは恥だとか、もしくは生活に困窮していることを知られるのが恥ずかしいと思っているのかも知れません。

いつも思うのは集合住宅の場合、

-ポストに郵便物が溢れていた・・・

-最近顔を見かけなかった・・・

-激しく泣く声は聞こえたんだけど・・・

等々

多分、昔の人たちの方が遙かに察しが良かったりしたのだと思います。

悪い意味での個人主義、プライバシーが増長した感ありです。

子供が激しく泣いていたらまず他人の家でもすっ飛んでいく、という、普通のことができない社会が、例えば犯罪者に対して「コイツは死刑にして当然だ」と言った時、私は少し寒気すら覚えます。

個人的には死刑は賛成ですが、それは市民が他山の石と思える覚悟があること、我が身を戒める貴重な訓戒と思えることが大前提だと思います。

例えば夜遅く、人もほとんどいない終日禁煙の駅のホームの隅で、隠れるように煙草を吸っていたら、注意すべき人の裁量範囲かも知れませんが、誰にも被害も迷惑も出ていないのですから見逃すかも知れません。しかし子供が泣き叫んでいたり、いつもいる人が見えなかったらこれはただ事であるはずがありません。何か危機感を感じなくなってきた日本人というのは、ある意味養豚場の豚にも似た精神状態と思わなくもありません。平和すぎて他人への心配りができなくなってきたというのはある意味、社会的な危機のように感じます。これはそっくり日本を取り巻く国際環境にスケールアップして言うこともできます。

世界でも屈指の平和大国日本に於いて、恐らく未来永劫、戦闘行為として使う機会はないであろう古武道や武道が未だに隆盛である理由は、意外に平和すぎる事への生物学的な恐れではないかと思ったりしましたが、このところその武道の効果を以てしてもこのような悲惨な事件が防げなくなりました。

少しでも異常を感じたら何か行動をすべきです。昔の人はそうしました。

多分、1万年ぐらい前まではそうしなかった人は全滅したでしょうし、1000年ぐらい前でもそうしなかった人はそうした人に隷従を強いられたことでしょう。

それだけ危機感をどうするかという能力は重要な気がします。

更に言えば、いちいちキリキリしなくて済む方法は、日頃から周囲の人たちと交流を持つことです。結局、昔の人たちがしていたこと他なりません。

IT技術は飛躍的に進歩しましたが、上記のことの代替技術には決してならないと思います。

平成二十四年卯月二十二日 不動庵 碧洲齋