4. 祈り
十字架を立てられると、別の鈍い痛みが襲った。
しかし、あいかわらずどこから来る痛みかはっきりしなかった。
すでに全身に痛みが駆けめぐっているかのようだった。
ラビは苦しみに耐えながら何かをつぶやいていた。
盗賊は何とか聞き取ることが出来た。
「父よ,彼らをお許しください。自分たちが・・・何をしているかを知らないのです。」
盗賊はその言葉を図りかね、苦しみに耐え、それでも祈りを続ける若いラビの横顔を見入った。
そしてラビはふと、誰かを見つけたように民衆の最前列にほほえみかけた。
盗賊もその方に視線を向けた。
見覚えのある、若く美しい女と、健康そうに日に焼けた男が、手を取り合って泣きながら立ちつくしていた。
アンナと元部下ザカルだった。
盗賊は衝撃を受けた。
ザカルは病に伏せていたとはとても思えない、盗賊時代の健康でたくましそうな肉体に戻っていた。
ザカルとアンナは盗賊にも目を向け、泣きながら祈っていた。
しかし信じがたい光景を目にした当の盗賊は、我が身の置かれている状況を忘れ、ラビに驚きの視線を送った。そのわずかな間、頭の中は小宇宙と化し、光の速さでいろいろな思いが駆けめぐった。
しかし、全ての考えは虚空に吸い込まれ、強い光だけが心に焼き付いた気がした。
そして、何かが変わった。
盗賊には永遠にも近い時間に感じたが、ほんの一瞬だったのだろう。
今日、同じく磔になった、若い罪人の苦しそうな罵りによって現実に引き戻された。
「ちくしょー痛えよお、死にたくねえんだよお。おい、てめえ、てめえ救世主なんだろ!」
若い罪人はラビを罵倒した。
「おい、お前が、救世主って言うんなら、てめえ自身と、俺たちを救ってみろ!え?聞こえてんのかよ、ちくしょうめ!」
若い罪人は獣のようにつばと汗をまき散らし、ほえるように叫んだ。
盗賊はあらん限りの力を込めて罪人を叱った。
「お前は同じ刑罰を受けているのに,神を恐れないのか。 確かに罪を犯してきた我々には当たり前のことだ。自分の行ないに応じた報いを受けているのだから。だがこの方には何の罪もないのだ。」
盗賊は、苦しくなってきた息を整えてからラビに言った。
「主よ,あなたがご自分の王国に入られる時には,どうかわたしのことを思い出してください。」
ラビは盗賊を見つめ、力無く、しかし優しくほほえみかけた。
「分かっている。あなたが神殿に現れた時から・・・。あなたは肉の上では人の為に罪を着たが、魂の上では神の国にふさわしい。確かにあなたに告げる。今日あなたはわたしと共に王国にいるだろう。」
盗賊は全身の痛みが引き、生まれて初めて安らかな気持ちになった。
気付くとうれしさのあまり、涙を流していた。
身は疲れ果て、過酷な灼熱地獄の元、手足に太い釘を刺され、まさに地獄にいるような時のはずだが、盗賊は言いようのない、尽きることのない喜びが溢れ出て、それが涙になっていることを知った。
どのくらい過ぎたのだろう。
太陽はごくわずか傾いたようだが、まだ日差しは厳しかった。
時折、乾いた熱い風が盗賊の耳元で吹いた。
死への恐れはもうなかった。
自分の全てであり、唯一の存在に幾度目かの視線を送った。
ラビは何か祈っているようだった。小さくつぶやいていたが、最初はよく聞き取れなかった。
「・・・神よ、何故わたしを捨てられるのですか。・・・」
盗賊は一瞬驚いた。ラビでもこのような状況では神に恨みを言わずにはいられないのか。
「何故遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きをお聞きならないのですか。」
徐々に声が大きくなってきた。処刑の様子を見ていた観衆も、それに気付き始めてきた。
ラビはうつむいたまま、言葉を続けた。もう顔を上げる気力も残ってはいないのだろう。
「あなたは、わたしが昼呼び求めてもお答えにならず、夜も黙ることをお許しにならない。
だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方です。
わが先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来ました。
助けを求めてあなたに叫び救われ、あなたに依り頼んで裏切られたことはありません。」
ラビが口にしている言葉が、聖書の詩篇の言葉であることに盗賊はぼんやりと気付いた。盗賊はどんな言葉だったか、思い出そうとして、どうしてもできなかった。
ラビはやや顔を上げ、民衆を見つめたまま言った。
「ですが、わたしは人にも劣る虫けらです。人にそしられ、民に侮られます。
わたしを見る者は皆、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、頭を振り言います。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」
しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。
わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神であらせられました。」
民衆から動揺と小さな悲鳴が聞こえてきた。
ふつう、磔にされた罪人は、この時とばかりと神や民衆に呪いの言葉をかけ、特に呪いの言葉をかけられた人は、過ぎ越の祭りまで、忌み嫌われ続けた。
盗賊も磔になった人々が怒りや憎しみから呪いの言葉を口から溢れんばかりに紡ぎ出す様を、何度も見てきた。
民衆は磔にされた罪人から祈りの言葉を聞くとは思いもよらなかった。
磔刑者から降り注ぐ祈りの言葉に、民衆は自らの心の闇に潜んでいる何かが、苦しみのあまりうごめいているのを感じた。
「わたしを遠く離れないでください。苦難が近づき、わたしを助ける者はおりません。
雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫ります。
餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむきわたしに襲いかかる者がいます。」
ラビはやや首を巡らせ、遠巻きに見ているユダヤ兵を見つめた。
一人としてラビを見返すことのできる兵士はいなかった。
「わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとく砕け、
わたしの心臓は、ろうのように、胸の内で溶けるでしょう。
口は渇いて素焼きのかけらとなり、わたしの舌はあごにつくでしょう。
あなたはわたしを死のちりに打ち捨てられるでしょう。
犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手足を刺し貫くでしょう。
骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺めるでしょう。
彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にするでしょう。 」
民衆は互いに顔を見合わせ、遠くから見ているパリサイ人の司教らに厳しい視線を注いだ。
厳格なユダヤ教司祭らはうろたえ、遠巻きにしているユダヤ兵たちの包囲の輪が少し広まった。
「主よ、遠く離れないでください。わが力の神よ、今すぐにわたしをお救いください。
わたしの魂を剣から救い出し、わたしの身を犬どもから救い出してください。
獅子の口、雄牛の角からわたしを救い、わたしにお答えください。」
司祭らに近い民衆が、遠くで何かののしっているようだった。
盗賊の耳には「あの方は神の・・・」としか聞こえなかった。
アンナは絶えきれず崩れ落ち、ザカルが支え、盗賊を見上げた。
盗賊は自然にほほえんだ。彼らにしてやれる慰めは、これしかなかった。
ラビは再び民衆に視線を向け、苦しいはずなのに、穏やかな顔で語りかけるように言った。
「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、会衆の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美しなさい。
ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰しなさい。
イスラエルの子孫は皆、主を恐れなさい。
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。
御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる会衆の中であなたに賛美をささげ、
神を畏れる人々の前でわたしの誓いを果します。
貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように。
地の果てまで、すべての人が主を認め、御元に立ち帰り、
国々の民がみ前にひれ伏しますように。」
民衆は気付き始めた。
いったい、罪がどこにあり、自らは何をしてしまったのかを。
肉体の病の癒しにのみに心を砕き、奇蹟の先に示された神の言葉を耳に入れなかったことを悔いた。
神の御心を説く若きラビを剣の先に擬して、イスラエルの未来と信じていた愚かさを悔いた。
計り知れないほど大いなる方を陥れたことを悔いた。
ラビの言葉は続いた。
「国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
地の誇り高ぶる者は皆主を拝み、ちりに下る者も、
おのれを生きながらえさせえない者も、皆その御前に跪くでしょう。
子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
成し遂げてくださった恵みの御業を、後に生れる民にのべ伝えるでしょう。」
盗賊は薄れていく意識の中で、幼い頃、父と母に連れられて船旅をした時のことを思い出した。
小さかった盗賊が大きな帆船の舳先で地中海の潮風を胸一杯に吸い込みながら、無邪気に飽きもせず母と帆柱を見上げていた。
「ねえ、母さん、風って不思議だね。」
「どうして?」
「だってこんなに大きな船が見えない力で、すごく速く動くのだから。風はとってもすごいよ。」
「見えないもので、不思議なものは誰でも持っているものよ。それはこの船の何千倍、何万倍も大きなものも動かしてしまうほど、不思議な力なのよ。」
「僕も持っているの、母さん?」
「もちろんよ、それはあなたにもたくさんあるわ。でもそれが何なのかは、あなたが時間をかけて、生きている間、自分で探し出さなくてはならないの。そしてそれが何か分かった時・・・」
盗賊は今それを感じている。
それがこの大地のみならず、宇宙全体に光に包まれながら充ち満ちているのを感じていた。
そして人がそれによって生かされているのが分かった。
人はそれを神と重ねて見つめていることを悟った。
そして突然、暗闇の遙か向こうに小さな光を見た気がした。
どこからか、彼の声が遠く厳かに聞こえた。
「父よ,あなたのみ手に,わたしの霊をゆだねます。」
盗賊は一瞬、それが天から降り注いできた声のようにも思えた。
若いラビと盗賊はまもなく静かに息を引き取った。
近くでラビが逝くのを見ていた百人隊長は小さくつぶやいた。
「何ということだ、彼は真に義人であらせられたというのに・・・」
その若いラビはエルサレム近郊の村、ナザレの出身で、父はヨゼフ、母はマリアといった。
名はイエス、後世、キリストと呼ばれた男だった。
彼の言葉は今でも、世界中に伝え広められている。
(おわり)
SD110910 碧洲齋